2009年1月号
特集  - 一極集中を打ち破れ 「愛」と「技術」が地域を救う
京都のベンチャー精神は輝き続けるか
京都には個性の光る機械、電気、精密機器などの企業が多い。多くは研究開発型で、高い収益力を誇る。歴史をさかのぼると、明治時代の初め、京都の人々が取り組んだ「教育」と「科学技術による地域経済振興」にたどりつく。以来、そうした地域の力が多くのベンチャー企業を生み、その幾つかは世界企業に飛躍した。旺盛なベンチャー精神は今も輝き続けているのか?

    表1 全国で1位なんでも
         ランキング

表1

京都の駅ビルで見つけた「京都NOW」vol.2(2008年11月、京都府広報課発行)という冊子に「全国で1位なんでもランキング」が載っている。京都府の製造品(工業)出荷額(2006年)の一部を紹介すると、分析装置(光を除く)701億円、材料試験機94億円、公害計測器297億円、理化学機械器具288億円、鉛蓄電池253億円——といった具合だ(表1)。

島津製作所、堀場製作所、あるいはジーエス・ユアサコーポレーション(前身は島津製作所から分離独立した日本電池)などの製品である。これらの企業に限らず、京都市とその周辺には京セラ、オムロン、村田製作所、日本電産、ローム、村田機械、日新電機など個性の光る企業がたくさんある。多くは研究開発型企業として知られる。高い収益力もこの地域の企業の特徴で、2008年3月期の営業利益率(連結)は村田製作所が18.3%、ロームが18%と驚異的だ。今を時めく任天堂もあるが、ここでは機械、電気、精密機器業界を中心に京都のベンチャー精神の在りか、イノベーションを生み出す地域の力を概観してみたい。

情報を共有し選択と集中

1875(明治8)年創業の島津製作所は、京都の企業群のなかでも「京都らしさ」を代表する企業だろう。同社については多くの説明を必要としないが、同社単体の社員約3,200人の3分の1が研究開発に従事し、営業サポート等を含めると技術者がおよそ半分を占める。

図1

図1 島津製作所の事業戦略に基づいた研究開発
    (技術)戦略

「事業計画にのっとって、従来にも増して研究を効率的、計画的に進められるようになった」と吉田多見男取締役技術研究担当は自信をのぞかせる。数年前から、研究開発陣がつくった自社の製品・技術ロードマップ(毎年更新)により全社で情報を共有。複数の事業部に共通する課題はみんなで考えるなど選択と集中が可能になるとともに、進捗状況も把握しやすくなった(図1)。

京都の企業について吉田氏は次のような特徴を挙げる。

ベンチャー企業だから他人のやらないことにこだわるチャレンジ精神がある。
伝統的文化や歴史を重んじ、東京への負けん気もある。
各社ともコアの技術を深く掘り下げるとともに、事業をその周辺分野に広げている。
大手企業は分野が異なりすみ分けができており、自分の役割を認識している。ベンチャー時代はお互いに助け合った。
町が適当な大きさであり、大学や優秀な学生が多いので大学との連携も盛んだった。

同社は仏金具製造技術を活用した理化学機器製造のベンチャー企業としてスタートしたが、1896(明治29)年には2代目島津源蔵がX線写真撮影に成功(写真1)。それはレントゲン博士の発見の10カ月後であった。こうしたコア技術を深掘り し、百数十年にわたって業界のトップを走るというのは並大抵のことではない。一方で、最近は多分野にまたがる融合分野のテーマも増えているので「学」「官」との連携も多くなっている。

図3

                    写真1 1896(明治29)年に2代目島津源蔵がX線写真の撮影に成功した(左)。
                         国産初の医療用X線装置は1908(明治42)年に千葉の陸軍病院に納入した(右)。
                        (島津製作所提供)

企業城下町でないことが幸いした

少なからぬ京都のベンチャー企業が世界企業に成長していることについて、半導体製造装置メーカー、サムコの辻理代表取締役社長は「企業城下町でなかったことが幸いした」とみる。

同社は辻氏が1979年にビルのガレージからスタートしたベンチャー企業である。京都大学で有機物の微量分析を研究し、NASA(米航空宇宙局)エームス研究所の研究員となったが、帰国後、大手電機メーカーから太陽電池用のアモルファス・シリコン薄膜形成技術の開発依頼を受けたことが起業のきっかけだった。現在、手掛けているのはシリコン以外の半導体の製造装置だ。本拠地の京都と英国ケンブリッジ大学、米国シリコンバレーの3極の研究体制を敷いている。

なぜ、大手企業の城下町でないことが京都企業成功の要因なのか。「地元にユーザーがないので、外に出て行かざるをえなかった。特に海外を目指した」からだ。同社の第1号の製品であるCVD(化学気相成長)装置の最初のユーザーは米国の石油会社だった。「ベンチャー企業の新製品を日本の企業はなかなか買ってくれない。必ず『納入実績はありますか』と聞いてくる。京セラも日本電産も最初のお客さんは米国の企業だ」。

辻氏は経済学者のM・ポーターの「ダイヤモンド・モデル」を使い次のように説く。ポーターは、企業や産業に競争の優位をもたらすものとして4つの要因——「企業の戦略(人材)」「産業支援(金融など)」「需要条件(顧客)」「生産の要素・資源(インフラ・大学)」——を提示しているが、辻氏は京都にはこのうち「需要条件」がないという。そして、この産業立地の形を「京都モデル」と名付けている。ポーターのダイヤモンド形の上の1角がないので「チューリップ・モデル」とも呼んでいる(図2)。

図2

図2 「ダイヤモンド・モデル」と「チューリップ・モデル」

優れたマーケティング戦略と技術経営

言うまでもなく、機械、電気、精密機器関連の京都企業の多くが手掛けるのは消費財ではなく、生産財である。しかもそれぞれの市場がそれほど大きくなく、大手電機会社などがあまりやりたがらない分野である。

サムコは、巨大な市場のシリコンの半導体ではなく、化合物半導体をつくるための製造装置メーカーであることは既に述べたが、ロームの場合も、半導体の花形製品のDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)などではなく、特注LSI(高密度集積回路)のトップ企業である。

こうした製品では、プロダクト技術ではなく、開発技術が重要になる。そうした技術が複雑化、高度化すればするほど実は特許などには記されていないノウハウがものをいう。最先端技術の製品であればなおさらだ。研究開発型といわれている企業でも、熟練技術者に依存している技術、部品、工程が少なくないはずだ。

京都の企業の多くは研究開発重視と、ややあいまいな表現を用いてきたが、高い技術がストレートに生産性向上、そして高収益に結び付くわけではない。京都の企業の場合、どの分野で起業するか、何を手掛けるかというマーケティング戦略が秀逸で、技術経営に優れた経営者が多いということだろう。

京都の老舗の菓子店は、朝つくった品物を売り切ると昼前でものれんを下ろしてしまう。このように適度の品薄感を演出することでブランド力を維持し、店を細く長く維持させる伝統的なマーケティング力と通じるものを感じる。

町衆が私財を投じ小学校

明治維新で東京遷都となった時、京都の人々は何をしたか。現在の言葉で言うと、教育と科学技術による産業振興だ。1869(明治2)年、町衆が私財を投じて、上京、下京の番組(学区)ごとに小学校を創設した。この番組小学校は全部で64。国が学制を定める3年前のことである*1。「東京に負けないぞ」という反骨精神を教育に向けたのだ。また、舎密局(せいみきょく)を大阪から招致し、1870(明治3)年12月に木屋町二条界隈にその仮局が開局している(写真2)。

写真2

                                     写真2 1870(明治3)年12月に舎密局(仮局)が開局
                                          (島津製作所提供)

舎密局とはオランダ語の化学(シェミー:chemie)を漢字に当てはめたもので、[1]伝習生(学生)への新しい理化学の教育 [2]レモンシロップ、陶磁器、ガラスなどの製造 [3]印刷、写真術の研究実験 [4]せっけん、氷砂糖などの製造——を行った。1871(明治4)年に殖産興業の推進本部である勧業場が創設され、翌1872(明治5)年から73(明治6)年にかけて舎密局を拡張し、本局と分局2棟を建設した。開局5年間で学んだ学生は3,000人に達する。島津製作所を創業した初代島津源蔵もその1人だった(吉田・島津製作所取締役)。

元奈良先端科学技術大学院大学教授で、現在、京都環境ナノクラスター広域化プログラム・オフィサーの今田哲氏は「地域にこだわる反骨精神と科学への尊敬の念が産と学の垣根を無くし、その機運が京都の産業を引っ張ってきた」と語る。

ベンチャーを生み出す都市

1945年には堀場製作所、1954年にはロームが生まれ、鹿児島県出身の稲盛和夫氏は1959年に京セラを創業、大阪で創業した立石一真氏(熊本県出身)が戦災に遭って1945年に京都に移りオムロンを発展させるなど、京都はベンチャーを生み出す都市である。これらの企業が高度経済成長期に地域経済をけん引した。

「売り上げの大きさも含めて世界に知れ渡る企業は1973年設立の日本電産が最後かもしれないが、その後も京都からは数多くのベンチャーが生まれ上場も果たしている」と財団法人京都高度技術研究所の白須正専務理事・事務局長は言う。

近年も、上場は、TOWA(1979年設立)、ユーシン精機(1971年設立)が1996年、ファルコバイオシステムズ(1962年創業)が1997年、トーセ(1979年設立)が1999年で、これらは既に一定の知名度がある。さらに、2001年のサムコ(1979年設立)やフェイス(1992年設立)、2004年のシーシーエス(1993年設立)、2005年のオプテックス・エフエー(2002年設立)などが続く。

地域の文化的価値を見つめ、実践する

とはいえ、こうしてベンチャーの歴史を追い、産業界、大学の研究者を見渡すと、やはり問い直さざるをえない。ベンチャー精神は輝き続けているのか、ベンチャー企業を生み、育て、世界企業に飛躍させる地域の力を維持しているのかと。

京都だけの問題ではないが、東京一極がここまで進んだ現在、地域の独自色を武器にイノベーション力を発揮し続けられるのだろうか——こうした危機感が産学官各界の深層で徐々に膨らんでいるようにも感じられる。

「もし、中央集権に巻き込まれるようなことになると京都のパワーが無くなってしまう」と今田氏はいう。

元オムロン副社長で、現在、財団法人京都高度技術研究所産学連携事業本部長である市原達朗氏は次のように語っている。

「イノベーションが起こりにくいのはシーズとニーズのマッチングが弱いからではない。田に植えた苗を育てようという機運が盛り上がっていないことによる。京都は大阪ほど東京志向ではないが、それでも、もう1度地域の文化的価値観を見つめ、それを実践していくことが産業振興にもつながるだろう。産学官の連携を進めるために、特にお互いのバーチャルな信頼関係を築くために、行政機関の指導、音頭取りが重要だ」。

(登坂 和洋:本誌編集長)

*1
参照元 京都市情報館