2005年4月号
巻頭言
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有馬 朗人 Profile
(ありま・あきと)

財団法人日本科学技術振興財団
会長/元文部大臣



1989年東京大学の総長室に英国のサッチャー首相(当時)を迎えて懇談した。そして英国の政府機関のエージェンシー化や、大学の教育・研究の評価に基づく政府の財政支出の話を聞いた。そのとき私は大学の評価に対する英国方式に批判的な気持ちを述べた記憶がある。と同時に国立研究機関や特殊法人のエージェンシー化が日本でも起こる可能性を予想した。しかし国立大学の法人化までは思い至らなかった。それでも今日の状況の一部をそのころ予想したのであった。そして積極的に大学への評価の導入に努力した。

また産学協力のはしりであった寄付講座の導入について、森亘総長(当時)の意を体し、理学部長、次いで総長特別補佐(副学長)としてその実現に努力した。森総長は1987年4月の評議会で全学の合意を得て、東京大学(東大)として寄付講座の導入を正式に決定した。それに至る過程で、東大のみでなく大学には、1960年代後半より1970年代前半の激しい大学紛争時代の産学協力絶対反対の強い雰囲気が残っていて、寄付講座反対の勢いは極めて強かったことを今でもありありと覚えている。今日、国立大学における産学官連携が強力に叫ばれていることを見て今昔の感に堪えないのである。

私が東大総長時代(1989~1993)、ついに不明であったことは、知的財産をめぐるアメリカの動きであった。また文部省(当時)よりの特許申請、特許維持のための予算が、全国立大学で年間5,000万円という超少額であったため、大学として特許を推進できず、教職員の個人的努力に委ねるという方針を採らざるを得なかった。こういうこともあり、私は特許-もっと広く知的財産-に対して注意を払わなかった。

私が知的財産に関心を持つようになるのは、1993年10月特殊法人理化学研究所(当時)に理事長として着任した時からである。特に荒井特許庁長官(当時)の強い指導の下、1996年~1997年にかけて、日本の特許がどうあるべきかの議論の座長を務めたとき、日本の知的財産政策の問題点を強烈に知ったのである。特にアメリカが1980年にバイ・ドール法を成立させ、その結果アメリカの特許申請数が長い間世界一であった日本を追い抜き、大学の特許申請数は4,000件を超え、大学と産業界を結びつける技術移転機関が続々とつくられ、大学の起業が次々と成功していることを知って、がくぜんとしたのである。ちなみに当時日本の国公私立大をあわせて大学としての特許申請数は100件台であった。アメリカは1980年のこのバイ・ドール法以来、知的財産強化と産学官の協力推進に関して強力に政策を推し進めていた。その結果が、特許件数、起業数の急増にはっきり現れてきていた。私は1996年~1997年まで大学を含めたこのアメリカの激変に気がついていなかったのである。国としてもやっとTLO法を成立させたのは1998年であった。

しかし今や産学官の連携の重要性に産業界も国も、大学も研究所も目覚め、強力に連携を推進して行こうとしていることに、心から声援を送りたい。科学技術基本計画がこの行き方を大きく支持していることも心強い。と同時に基礎科学者として新しい産業を産む基礎として、基礎科学・基礎研究が重要であることも国として忘れないよう念願している。