2007年1月号
産学官エッセイ
産学官、冥利いろいろ

中沢 弘基 Profile
(なかざわ・ひろもと)

独立行政法人 物質・材料研究機構
フェロー

学の立場にあった筆者が発明した装置が実際使われ、新しい研究分野が開かれているのを見た時の幸福感をまず述べる。そして、産学官連携はまさしく産、学、官の共同であるが、しかし、各分野の価値観あってこそのもので、それが良い研究成果を生むものと、論を展開する。

“プロジェクトX”みたい!

先日、退職金の一部で小規模な投資をしている元同僚が訪ねてきて、「貴兄の関係している○○社の株を買っておけばよかった」と残念がった。同社の製品の一つが欧州に販路を広げた、とのニュースで株価が上がったらしい。“製品の一つ”とは国立研究所時代に特許を申請して、当時の新技術事業団の支援で同社の技術者が製品化した装置のことである。古い話で既に特許権も消滅している。同装置は、市場開拓に手間取っていたが、その後の性能の向上と時代の要請が相まって、最近になって急激に国内に普及した。きっと欧米にも売れるようになるだろう、と彼には言っておいたのである。

紙に描いた自分の発明が世に出て、なおかつ誰彼の役に立っているのを見るのは発明者冥利(みょうり)である。いわんや爆発的に普及したとか、欧州に販路を広げた、と聞くにおいてをや、である。大学に転職して赴任したら、近隣の研究室で件(くだん)の装置が2台も活躍しているのに出会った。この装置は筆者の発明だ、と言ったら、使っていた若い同僚は痛く感激していたが、感激したのはむしろ筆者の方であった。また大学の授業で、この装置の原理に加えて、製品として今になって広く普及している話をしたら「“プロジェクトX”みたい!」と学生に言われた。それらはいずれも、特許を紙に描いただけでは得られない「使われてこそ」の快哉(かいさい)である。

学や官の研究者はNature誌やScience誌に論文を載せて、わがオリジナリティを世界に誇ることはできても、紙に描いた特許を誰かに使ってもらえる“製品”にまではなかなかできない。また、それが主務でもない。研究成果の一部が誰かの役に立っていることを知る発明者冥利は、論文発表の快哉とは全く異なっているが、それを得るプロセスもまた、論文や特許を書くプロセスとは全く異なっている。

仮に、間違いなく世の役に立つ斬新なアイデアがあって、研究室レベルの試作に成功したとしても、それだけでは社会に受け入れられる“製品”にはならない。そもそもニーズよりもシーズに基づいた発明をした学や官の研究者には、市場が見えない。市場の要請も見えない。斬新なアイデアで世の役に立ちそうなものを産み出したからといって、それだけで使う人が現れて自然に普及するだろうと思うのは誤解である。研究論文とは違ってオリジナリティだけで市場は拓けない。自動車やテレビのように巨大市場が既にあって、そこに少し優れた改良版を出す場合と異なり、全く新規の製品ではどんな役に立つのか、どんなに良い物かを知らせなければ市場性につながらない。オリジナルの度合いが大きければ大きいほど、市場を拓くのに時間を要するであろう。

良いものだから絶対世に歓迎されるはずだ、と気がはやってベンチャー企業を立ち上げたりすると、努力や技量の割に大きなリスクを負う。起業は容易だとしても、アイデアや試作品を“製品”にするのは容易ではない。なぜなら企業と企業の技術者が蓄えた知恵が不可欠だからであり、市販品の開発を支えるには資力も要るし、市場を拓くには営業の知恵も要るからである。そんなすべての力量を備えた研究者はなかなかいない。研究や発明とは異なって、製品化は個の才や努力の成果ではなく、研究者・技術者・経営者の「餅は餅屋」連合の共同成果である。その上、市販品としての成功にはむしろ、技術移転先の企業や技術者の寄与が大きく、そして多分、“時の運”の支援も必要と思われるからである。産学官連携の一経験である。

発明の評価

最近、独立行政法人となった旧国立大学や国立研究機関の経営は容易ではない。政府からの運営交付金が年々減額される中で、破産しない収支を保たねばならないから、組織内部では外部資金の獲得が評価され、特許の取得やベンチャー企業の立ち上げの評価が高くなってきた。これまでは国有であった特許権の半分を発明者個人に与えたり、ベンチャー企業の立ち上げには各種の優遇措置があるなど、発明の誘導にさまざまな工夫がされている。かつて不正義とされた研究や教育以外の活動も、業務の一環として認められ、インパクトファクターの小さな論文を書くよりもむしろ発明や起業化努力に高い評価が与えられている。産業界の研究所でも、収益を上げた製品の発明者には相応の対価を会社が支払わなければならない、との裁判例があった。学・官のみならず、研究者にいい発明をさせるためには収益で誘導するのがよいと考えているようにみえる。

研究者があえて清貧を好むわけではないから、利益を上げた発明で相応の対価を得ることは悪い話ではない。しかし学や官の、収益のみが研究の動機ではない研究者にとって、収益を誘引とする各種の措置は必ずしもいい発明を促すことにはならないかもしれない。

自分の発明した装置が、大学の若い同僚に使われて新しい研究分野が拓かれているのを知った時や、学生に「プロジェクトXみたい!」と言われた時の幸福感は、売り上げが何千台で何百億円であったと聞いた時のそれとは全く異なり、かつはるかに大きかった。あれがもし、医薬品や医療装置など直接人の命や生活を助けるのに役立つような製品であったなら、誰かの役に立ったことを知った時の快哉はさらに大きかったであろう。シーズから発する学や官の発明は、必ずしも収益を目的とした研究から発するものではないから、研究成果を発明に結び付けるか否かは個々の研究者の社会観や価値観に依存する。特許を書いて研究成果を独占することを潔しとせず、あえて論文で公開した同僚もいた。人の価値観はさまざまである。収益に応じた多額の分け前で発明を誘導されるよりもむしろ、分け前を少なく規制されることで、逆に世の敬意を得る方がいいと考える人もいるであろう。論文や著作のように製品に発明者の名前を表示する義務付けなどいい方法があれば、それも一つの方策かもしれない。

おわりに

収益の多寡のみで発明を評価したり誘導する風潮が行き過ぎると、学や官の研究の質そのものを下げる悪い影響が出てくる懸念も生ずる。学や官のシーズから発する発明は、その後の製品化や宣伝など市場開拓が容易ではない。産との連携も要るし、開発には時間も要する。さらに市場に出ても、成功して収益に結び付くかどうか確かではない。従って、もし学や官の研究者が発明で収益を上げようとすれば、既に市場が拓かれている製品が直面する問題を解決するような発明を手掛けた方が容易で確実であろう。市場の直近のニーズに応える研究である。しかし、そういう研究や発明は本来、産の役割であって、学や官に期待されるのは、非市場的研究から派生するはずのもっととんでもない発明ではないだろうか。研究成果を収益で評価したり、発明を利益で誘導すると、学や官の研究自体の矮小(わいしょう)化を誘導しかねないと危惧(きぐ)されるところである。

産官学連携は「餅は餅屋」連合の共同であり、餅屋それぞれに固有の価値観がある。市場価値だけで一律に評価されることがなく、それぞれがそれぞれの仕事の冥利を求めることのできる社会が本当の文明社会であろう。餅屋、餅屋に糊口の不安がないことが前提であるが、多様な価値観が共存する社会、そんな社会が良い研究成果や発明を生むものと思われる。