2009年2月号
特集  - 独創技術 事業化への苦闘と陶酔
キャズムを乗り越える
顔写真

大滝 精一 Profile
(おおたき・せいいち)

東北大学大学院
経済学研究科 教授


独創的な技術による新製品が市場に出ると、まず、革新的顧客(イノベーター)が購入する。その技術に精通し、わずかな情報でもその価値が分かる人たちだ。しかし、多くのベンチャー企業にとって、大多数の一般顧客(マジョリティ)に売り込むのは難しい。イノベーターからマジョリティへの移行を阻む「深い裂け目」=キャズムが存在する。

独創的な技術の事業化には幾多の困難を伴う。その困難の中でも最も大きなものが「キャズムを乗り越える」ことである。本稿ではそもそも「キャズム」とは何であり、そのキャズムを乗り越えるためには、どんなことが必要かを考えてみることにしよう。

購入者の意思決定パターンを理解する

「キャズム」の概念を理解するためには、まず独創的な技術をもった新製品に対する購入者の意思決定のパターンを知る必要がある。新製品が市場に導入されると、まず「イノベーター」と呼ばれる少数の革新的顧客が直ちにその製品を購入する。イノベーターは技術に十分精通しており、情報がわずかであってもその価値がわかるため、いち早くその製品の購入に踏み切る。

次いで「マジョリティ」と呼ばれる大多数の顧客が、イノベーターに続いて購入する。このグループは最初のイノベーターよりも大きい。というのは、その価値についての情報が広まり、不確実性が低くなるにつれて、新製品を購入する顧客の数が増えるからである。

図1

図1 購入者の意思決定の正規分布

そして最後の顧客グループ「ラガード」(購入遅滞者)がこれに続く。このグループは、その価値が定着するまで新製品の購入を控えるため、購入が起こるのは、そのライフサイクルの終盤になってからである。図1は、以上の購入意思決定パターンのモデルを示したものである**1

ちなみにこのモデルのオリジナルの提唱者であるエベレット・ロジャーズは、図1の「イノベーター」を狭義の「イノベーター」(取りあえず使ってみようという技術マニア)と「初期採用者」(他人より先に行きたいというオピニオン・リーダー)に、また「マジョリティ」を「前期多数採用者」と「後期多数採用者」に細分化し、5つのカテゴリーで説明している**2が、本稿では図1の単純化されたモデルを使って解説していくことにしよう。

「キャズム」とは何か

図1の顧客グループの分布モデルからも明らかなように、販売量に占めるイノベーターの割合は大きくない。従ってハイテク・ベンチャー企業を成功に導くには、イノベーターを越えて、いかにマジョリティを取り込むかを工夫する必要がある。しかし、多くのベンチャー企業にとって、販売対象をイノベーターからマジョリティに移行させるのは非常に難しい。なぜなら、ベンチャー企業の多くは、技術に精通しているイノベーターに対して新製品を売り込むことは得意であるが、マジョリティに販売を拡大しようとすると問題にぶつかってしまうからである。マーケティング・コンサルタントのジェフリー・ムーアは、このイノベーターからマジョリティへの移行を「キャズムを乗り越える」と表現している**3図2)。この図からも明らかなように、ここで「キャズム」とは、イノベーターからマジョリティへの移行を阻む「深い裂け目」を意味している。

図1

図2 キャズムを乗り越える

ベンチャー企業の成功にとって、「キャズムを乗り越える」ことは極めて重要な意味をもっている。市場の多数の顧客が、あまねく新製品を購入する水準まで到達できなければ、十分な販売量を確保できず、生産や販売の面での規模の経済性も発揮できない。そうなれば競争力を欠いたコスト構造になってしまう。ベンチャー・キャピタルからの資金調達を確保するためには、特に「キャズムを乗り越える」ことが必須の条件となるのである。

「キャズムを乗り越える」には

ではキャズムを乗り越えるためには、何が必要となるのだろうか。基本的にはどんな顧客がどんなタイミングで購入するかを知り、それぞれの顧客セグメントに対して新製品の特性のどの部分を訴求すべきかを考えなければならない。また経営資源に限りがあるベンチャー企業にとっては、異なる顧客セグメントに優先順位を付けて働き掛けていくことも重要である。

販売対象をマジョリティに移行して成功するためには、販売活動にかなり重要な変更を加えなければならない。マジョリティを対象とするということは、新しい技術に何でも興味をもつ顧客ではなく、新製品の価値について強力な証拠を要求する顧客を対象とすることを意味する。その結果、ベンチャー企業は技術そのものの斬新さではなく、新製品が顧客にとって競争相手が販売している製品よりもいかに大きな価値があるかを説明しなければならない。

さらに、マジョリティはイノベーターほど技術に精通していないため、個別の技術要素ではなく、自分の抱えている問題の全面的な解決策(トータル・ソリューション)を必要としている。例えば、イノベーターであれば、ソフトウエア単体だけを購入しても技術的知識を活用して有効に使いこなすことができるのに対し、マジョリティの顧客には、マニュアルや故障の際の手引きなど、ソフトウエアの付属品を含めたパッケージが求められる。つまりマジョリティを対象とする場合には、顧客が抱える問題に対する解決策を1つにまとめてパッケージ化しなければならない。

またマジョリティを対象に販売を切り替えることは、市場全体を目標にして広範囲にわたって興味をかき立てることを意味するわけではないことにも注意しなければならない。マジョリティを対象とするといっても、経営資源に限りのあるベンチャー企業の場合には、資源を多くの分野に浅く広く分散させることを避け、最も強い購買ニーズをもつ顧客セグメントを選び、そこに資源を集中することが重要である。つまり新製品に対して最大のニーズをもっている顧客は誰かを考え、そのニッチ市場ないし顧客セグメントに特化することで、最も効果的に価値を訴求することができる。例えば、新しい家庭用暖炉システムを販売する会社にとっては、自宅を所有する人全般を相手にするのではなく、自宅を新築する人を狙った方がはるかに効果的といえる。

マジョリティを対象に顧客セグメントを絞り込むプロセスは非常に難しい。特にマジョリティを相手にする場合には、イノベーターの情報は参考にならず、別の異なったやり方を必要とする。マジョリティ自体に対する顧客情報を獲得するためには、新製品の使用場面での参加観察などの独自の手法が必要とされる。

さらに、新製品の価値がマジョリティの顧客にどれだけ伝わるかを予測することも大切である。なぜならば、マジョリティの顧客は、新製品の購入を決める前にその価値を証明する情報を求めるからである。従って、訴求したい価値を目に見えるようにする「見える化」の努力も欠かすことができないといえよう。

●参考文献

**1 :スコット・A・シェーン.プロフェッショナル・アントレプレナー.スカイライト・コンサルティング訳.英治出版,2005,p.135-143.

**2 :エベレット・M・ロジャーズ.イノベーション普及学.青池慎一;宇野善康共訳.産能大学出版部,1990.

**3 :ジェフリー・ムーア.キャズム.川又政治訳.翔泳社,2002.