2009年8月号
特集  - 問われる「医」応える「医」
慶應義塾大学のがん研究における産学官連携
顔写真

堀内 正 Profile
(ほりうち・ただし)

慶應義塾大学
総合研究推進機構
研究推進センター
産官学連携コーディネーター

慶應義塾大学医学部では、グローバルCOEプログラム「幹細胞医学のための教育研究拠点」のサブグループの1つが「がん幹細胞とEMT(上皮間葉転換)を標的とした新規がん治療の開発」に取り組んでいる。このほか、がん低侵襲療法研究開発センターの取り組みなど同大学のがん研究を産学官連携を切り口に紹介する。

はじめに

世界保健機構(WHO)は、この先20年内に全世界のがん死亡者は年約1,000万人、毎年がんに罹患(りかん)する人も約1,500万人にそれぞれ増加することが推算されると発表し、各国に系統的ながん予防とがん治療対策の樹立を促した。こうした中で、近年、がん化学療法に「分子標的治療」という新しい概念が生まれ、代表的な分子標的治療薬のイレッサやグリベックが大きな注目を浴び、臨床現場で一定の効果を発揮している。

しかしながら、抗がん剤をベースとするがん化学療法の治癒率への貢献度は、いまだに満足すべき状況に達しておらず、現在の抗がん剤では十分な治療効果が得られないがんもまだ多く存在する。

このようながん研究の状況の中で、慶應義塾大学では医学部、理工学部、薬学部、先端生命科学研究所(山形県鶴岡市)等で、種々のがん研究に取り組み、早期のがん治療システムの開発を目指している。今回は、その研究の一部を、産学官連携を切り口に紹介する。

G-COEのサブグループ3(がん研究班)

慶應義塾大学医学部では、グローバルCOE プログラム(G-COE)「幹細胞医学のための教育研究拠点」(岡野栄之教授拠点リーダー)を2009年度に立ち上げ、現在、新しい学問体系の構築を目的に活動中である。このプログラムの中には5つのサブグループが存在する。その中の1つであるサブグループ3が、がん研究班(「がん幹細胞とEMT を標的とした新規がん治療の開発」サブリーダー:河上裕教授、グループ員:佐谷秀行教授、北川雄光教授、上野直人客員教授、大西保行実験動物中央研究所室長)である。「がんの転移」と「治療抵抗性を示す細胞の存在(がん幹細胞)」は、がんの治療において大きなポイントである。すなわち、発生過程等で見られる上皮間葉転換(EMT)と呼ばれる現象が、がんの浸潤および転移に関係することが明らかになりつつある。また、がん組織の中で放射線や化学療法に対して抵抗性を示す細胞が存在することも事実として受け止められつつある。このプログラムは現在進行中であるが、この研究で得られた成果を、産学官連携を駆使してトランスレーショナルリサーチを推進し、1日でも早くがんの治療に結び付けることを目指している。

また、慶應義塾大学では、研究推進センターで産学連携を強力に推進するため「外部連携研究創出助成制度」を設立し、多くの企業とがんに関係する共同研究を行っている。

がん低侵襲療法研究開発センター

現在、信濃町キャンパスにおいて、経済産業省の補助事業として「がん低侵襲療法研究開発センター」の施設の建設が進んでいる。この施設での研究内容は、がん低侵襲療法の先端的な研究開発を、基礎研究から臨床・治験、さらには実用化まで一体的に進めることのできるシステムを産学連携で構築し、がんの低侵襲療法を中心とする包括的な医療産業の創出と発展のための基盤を確立することである。

具体的には [1]世界最先端のヒト化実験動物プラットフォームを活用した新規抗がん剤の非臨床試験 [2]がんの超早期診断・低侵襲治療のための先端的Medical Engineering(ME)技術の開発と実用 [3]クリニカルリサーチセンターによるがん低侵襲療法の臨床研究・治験支援―の3つを柱として事業を推進する。

既存薬ライブラリー構築と抗がん剤スクリーニング

医学部の佐谷教授研究室では、G-COEのがん研究戦略の項で述べたように、「がんの転移」と「治療抵抗性を示す細胞の存在(がん幹細胞)」の2つの現象を標的としたがん治療戦略を開発する目的で研究を実施している。

その研究の過程で、佐谷教授らは、既に薬理・安全性が確かめられている薬剤(市販薬剤および治験PⅡ、PⅢ drop 薬剤、等)を収集・ライブラリー化し(これを既存薬剤ライブラリーと称する)、上記の現象に作用する化合物のスクリーニングを計画している。現在実用化されている薬剤において、当初とは異なる機能を見いだし、臨床応用されているケースは多数存在している。

一例として、Fasdilという化合物は、クモ膜下出血後の脳血管攣縮(れんしゅく)を緩和させる薬剤として既に臨床で用いられているが、Rhoキナーゼ阻害が明らかとなり、現在は、Rhoキナーゼ阻害剤として高血圧症、心筋梗塞(こうそく)などさまざまな疾患治療への応用が行われている。

大手製薬企業は、数十万、数百万の化合物ライブラリーを構築し、新しい薬剤の探索研究を実施している。企業の研究では、これら多数の化合物を一度にロボットを使用してスクリーニング(HTS)するため、偽ヒット化合物(false positive, false negative)がたくさん出現することが大きな問題である。

一方、大学でのスクリーニングは、探索に用いる化合物の数は企業に比べてはるかに少ないが、評価方法がアナログであるため解析は細やかであり、偽ヒット化合物の出現頻度は極めて少ない。また、この大学のスクリーニングで(既存薬ライブラリーを使用して)見いだされた新しい抗がん活性を有する化合物は、一定の臨床研究は必要であるが安全性が既に確保されているので、比較的早く患者さんのもとへ「新規の抗がん剤」として届けることができる。

現在、企業の賛同を得てライブラリーを構築中であるが、今後賛同企業を増やし、すなわち、真の産学連携を推進し、早期に質の高いライブラリーを構築したいと考えている。また、このライブラリーから、新しい抗がん剤が1日でも早く得られることを期待している。