2009年12月号
特集  - 日本初-2つの物語
九州工業大学特任教授 山川 烈氏
理系初のマネジメント教育 誕生秘話 -起業率日本一への道-
顔写真

山川 烈 Profile
(やまかわ・たけし)

九州工業大学大学院
生命体工学研究科
名誉教授・特任教授/
財団法人ファジィシステム研究所
所長(副理事長兼務)

聞き手・本文構成:登坂 和洋 Profile

(本誌編集長)

1990年代半ば、九州工業大学情報工学部(福岡県飯塚市)の山川烈教授の研究室で学生にマネジメント能力を付けさせる取り組みが行われていた。やがて同学部の正規の講義になり、全国の大学に広がっていった。当時、九州工業大学の学生が会社をつくって事業を始める「起業率」は全国一。今日のMOT(技術経営)、大学発ベンチャー企業ブームへと発展した、草創期の熱い思いを語る。

— 先生が、工学系の学生にマネジメント教育をしようと考えたきっかけからお伺いします。

写真2

会社で執務中の下野雅芳氏(現在、株式会社
     キューブス代表取締役)

山川  私が九州工業大学情報工学部に着任したのが平成元年です。情報工学部ができたばかりの時、私の研究室の最初の卒研生は、よその学科から私の研究室に来た学生で、その学生が「就職しないで会社を起こしたい。先生、銀行を紹介してもらえませんか」と言う。非常に能力のある学生だったので、気軽に銀行の人に話してみたんです。そうしたら「お金を融資するに当たっては山川先生が保証人になられるんですね」と。連帯保証ですね。私は驚いて、「いや、彼はこれだけの力を持っているので、その資質を担保にしてほしい」と言ったんです。私も、世間知らずでした。日本の銀行では担保と保証人しか融資の根拠がないことをそのとき初めて知りました。結局、彼は会社を起こすのをあきらめて、200倍の倍率を突破してソニーに就職したんです、「I will return」と言って。外国ではいろいろな企画書を審査して、比較的簡単に融資してくれるというのを聞いていた。日本は違うのかと、ちょっと疑問を抱きました。


— 今のお話はいわば「前史」ですね。初めは調査の依頼があったようですね。

山川  平成6年に日本開発銀行、今の日本政策投資銀行から私のところに調査研究の依頼が来ました。「日本でも米国と同じように最先端技術で起業ができるかどうかを調査してほしい」と。私が「それはお門違いでしょう。私はエンジニア、ファジィの専門家で、ビジネスを立ち上げるとかいうのとは全然関係がない」と断ったら、「いや、そうじゃない。先生はファジィに関するいろいろな技術をお持ちで、特許も随分お取りになっていると聞いた。そういう人が会社をつくれなければ、絶対日本では起業はできないはずだ。そういう条件がそろっていない人にお願いしてもしようがない」と言うんです。「私はつくる気はない」と言ったんですが、「そこを曲げて」と、ものすごく強く言われまして、結局引き受けることになりました。前の融資話の一件が引っ掛かっていたこともあったものですから。私の研究室と、私が理事長をやっている財団法人ファジィシステム研究所、弁護士事務所、財団法人九州経済調査協会、さらに日本開発銀行からも入っていただいてプロジェクトを組みました。


— このプロジェクトで勉強会をしたわけですね。

山川  月1、2回、それぞれの立場で、日本で起業する際の問題点などを調べて勉強したんですが、何かぴんとこないんですよね。そのうちに「実験やりましょうよ」という話になった。まず会社をつくって、それがどう動くかをじっと観察するのが多分1番いいだろうと。しかし、一般の人に頼むわけにはいかない。学生だったら学業の傍らアルバイト代わりにそれをやってみればいい。でも、ある程度才覚がないと難しいので、私の研究室の学生を各学年1人ずつ集めてやりましょうということになった。ドクター1年、マスター2年、マスター1年と4年生の4人です。4人に事情を話したら受けてくれた。私は300万円ぐらい用意し、前もって彼らに渡しました。われわれは一切、手を貸さない。彼らは会社の種類は幾つあるとか、それぞれ条件は何で、どういう難しさがあるというような勉強から始めたわけです。そして、平成8年、合資会社のCUE(キュー)をつくりました。CUE はComputer and Utility Engineering の頭文字です。年長のドクター1年の下野雅芳君が社長です。


— これが、学生に起業させた最初なんですね。

山川  そうです。第1号です。


— 4人でつくったんですね。

写真3

山川研究室の標語「工夫と執念」(山川 烈書)

山川  はい。4学年で組織、縦の構造です。ホームページをつくったり、LANを形成したり、コンピューターの扱い方を講義したり、コンピューターにまつわることは何でもオーケーで、主に商店街の人たちが顧客です。アパートに1つ部屋を借りて、ファクス、電話を入れてということでやり始めたんですけれども、やっぱりいろいろな問題が出てきましてね。それはこの調査研究結果として冊子にして日本開発銀行に納めました。文部科学省にも送ったような気がしますね。

下野君は本当は大学の先生になりたかったんですね。でも「大学の先生は最後でいい、若いうちに何でも経験したほうがいい、会社をやってみないか。骨は私が拾ってあげる」と言ったら、彼は「やる」と言った。やらせる以上は一蓮托生(いちれんたくしょう)ですから私も投資しました。いま私は同社の1番の株主です。彼は平成11年3月に在学3年間で博士号を取り、5月に社名をキューブスと改称し株式会社にした。CUEの事業を少し拡張したような会社です。このときはもう、彼はビジネスマンとしてのプロになっていましたね。


— キューで学んだことが多かったのですね。

山川  実はいま1つあるんです。起業に関する調査研究をやっていた時期に、平行して、学生に「最先端科学技術アカデミー」という組織をつくらせました。英語名Brand-new Science & Technology Research を略してBRATEC(ブラテック)と呼んでいました。優秀だけれども、お金がなくて博士課程に進めない学生を無理矢理ドクターの学生にしていたので、それなりに経済的な保障をする必要があったことが理由です。ブラテックはドクターの学生だけで構成され、企業に講演をして回る任意組織です。

顧客企業はブラテックに8万円の会費を払って、月3回の講演を聞く。いろんなアドバイスも受けることができるという特典がある。講師はドクターの学生3人です。その1人が後にキューブスを起こした下野君です。会員になってくれた顧客企業は3社。3人の学生が交代でそこを回っていくわけです。3社から入ってくる会費は合計24万円。学生1人当たり8万円の収入になります。

毎月、学生はそれぞれ1つテーマを持ちます。例えばA君がフォトダイオードのことを、B君が抗菌材料のことを、C君がインターネットのことを話すという具合です。これが1カ月に会社が受ける講演です。それを会員の3社に回っていくわけです。そうしますと、1人の学生は同じテーマを3回しゃべることになります。これが非常に重要です。年間36テーマ。その準備段階では、3人がいろいろなキーワードを出し合って、36テーマに絞り込み、その全部について3人が技術調査を行った。基礎的なデータに加え、技術雑誌、論文、教科書、週刊誌などの資料を持ち寄って、それを担当ごとに仕分けするんです。そして、その1つ1つのテーマに学生が貼り付いてまとめる。

写真4

研究室内では上級生が下級生を研究指導する

当時はパワーポイントがありませんから、OHPを作って、40分の講演のストーリーを考える。残りの20分が質疑応答です。視点はどうかというと、セールスマンから企画する人、開発担当者あるいは社長、どんなレベルの人にでも分かるように仕上げる。平均的なところで話をすると必ず質問が出てきますから、その質問の目線に合わせた答えも必ず用意する。リハーサルもやりました。こうやって3人が半年近くかけて準備をして、ブラテックはスタートしました。

これで何が起こるかといいますと、学生のプレゼンテーション能力が抜群によくなるんですね。やってみて、もうびっくりしました。第2に調査能力がつきました。この2点は非常に教育的によかったですね。3番目に、ビジネスマナーが身に付きました。4番目、これが本当の目標ですけれども、お金がちゃんと毎月入ること。8万円、毎月入ってきます。アルバイトが要らないんですよ。飯塚市で8万円あれば生活できます。アパート代が4万円ぐらいで、あと4万円ぐらいで何とかやっていける。ぜいたく言わなければですよ。奨学金ももらえれば日常生活に全然問題ない。

会員である顧客企業には、10日ごとに月に3回集まって、1時間だけ用意してもらえばいいんです。そうすると、えりすぐられたテーマの最先端の技術について、月3回聞けるんですよ。これは、セールスマンにも、事務の人にも、社長さんにしてもメリットが大きいのです。結局、彼らはブラテックを2年やりました。


— その3人のうちの1人が下野さんで、キューブス設立につながっていくわけですが、山川先生自身も、そういうマネジメントの大切さを実感されたわけですね。

山川  それに目覚めてきましたね。僕はマネジメントなんか、からっきし駄目だったんだけれども。会社の人と接していて、われわれの視点と全く逆だということに気が付いたわけです。われわれはシーズオリエンテッドでしょう。われわれは、こういう技術を開発した。世界で初めてだなんていう立場だ。「その技術をどういうところに使いますか」と言われたら、こういうところに使います、こういうところにも使えますと言うわけだが、企業の人にとってみれば、自分の会社に役立たなきゃ何もならないですよ。

技術系の人間でも、マネジメント、マーケティング、こういうものを知らないと自分の技量を生かせないし、自分の技術から出来上がったサンプル、プロダクトを世の中に出すことはできんなと思いました。自分の技術を世の中に出すためには、それだけのテクニックが要ると思うようになったわけです。論文書くのとは全然別の視点なんです。われわれ自身が変わる必要があることに気が付きました。では、学生たちにこれをいつの時点で伝えるのか。学部の1年、2年、3年の時に言っても、ほとんど分かってもらえない。大学院生(マスター、できればドクター)にもなれば、マネジメントのことが分からないと、会社に入ってから困ると理解してくれる。実際、会社ではそういう教育をしているんですよね。それならば、大学でそれをやったほうがいい、ビジネスマネジメントの研究室内では上級生が下級生を研究指導する講義をやろうと考えた。これが平成8年です。

写真5

クリーンルーム内の学生たち。ここでICチップ
     を試作する。

僕は平成5年度から8年度まで学部長をやっていました。学部長提案として、理工系の大学でもビジネスマネジメントの教育は必要じゃないかと、学内の委員会に投げかけて議論してもらった。すぐ、やろうと話が決まったんです。それが平成7年度で、平成8年度から半年間の講義だが、特別講義じゃなくて、ちゃんと2単位の卒業要件科目でした*1

普通、1つの講義に学生は30人か多くて40人ぐらいですが、この講義には160人の申し込みがあった。もう普通の講義室に入らない。先生方も毎週来ていただくのは厳しい。それで、夏休みの3日間の集中講義、大学の大講義室かホールでやろうということで、平成8年度に、90分、13コマ、2単位の「企業経営特論」を企画したんです。平成8年度は前期でした。「ちょっと待てよ。こんなに多く集まるんだったら、もうちょっと何か工夫したほうがいいな」と思いました。それで翌平成9年度は、前期の「企業経営特論」に加えて、後期に、米国、シンガポール、ニュージーランド、欧州等外国で会社を起こすにはどうしたらいいかという内容の「国際経営特論」というのを追加しました。私は彼らに海外でも活躍できるようになってほしかったんです。

こうしたマネジメント教育を始めたら、いろんな大学から「資料をほしい」という依頼がありました。電話がかかってきて、「何とか大学の何とかです。うちでも企業経営特論というのを開講したいので、ぜひお教え願いたい」と。もちろん、私は学部長ですから、情報は全部開示しました。そうしたら、日本全国の大学にそうした講義があっという間に広がりましたね。


— MOTの初期の段階ですね。

山川  そうです。うちが最初ですよ。文部科学省に聞いてもらっても分かると思います。うちからいろんな情報を流しました。もう今はどこの大学でも当たり前のこととしてこのような教育をやっていますがね。


— そうした取り組みの成果というのでしょうか、学生が次々に会社を起こしたんですね。

山川  講義を始めたら、面白いですね。学生たちの意識が変わってきて「先生、会社つくりたい」と言い始めた。私の周りでぱらぱらとでき始めたわけですね*2

10年後の平成17年3月の時点で、学生が起こした会社が32ありました。当時、本学の学生数は大学院を合わせ6,319人で、その企業数を学生数で除した“起業率”は0.506%で、国内の大学では1位でした。


— 日本におけるベンチャーブーム、起業促進策をどう総括されますか。

山川  国、金融業の対応の仕方が海外と全然違うと思いますね。もちろん、業を起こす側も違いますね。やっぱり三者三様に、まずいところがあります*3

写真6

馬に乗って「ひびきのキャンパス」内を散歩する
     山川 烈氏

資金の問題で、僕が提案したいのはプロフェッサー・ユニオン。すなわち本当に技術の評価をできる人たちを公的に組織化したものです。この人たちが「オーケー、これはいける」と言ったら、金融機関がお金を貸せばいい。


— 福岡県飯塚市には九州工業大学情報工学部のほか、近畿大学産業理工学部や多くの研究機関があり、市はこれらを活用した産業振興に取り組んでいます。しかし、東京に引っ張られている面はないですか。

山川  あります。ただ僕は、それは、ほどほどにしておいたほうがいいと思っている。大都市に根を張っておいて、そちらから栄養分をとればいいので、花は別のところで咲かせたらいい。極端に言うとですね。根が張れる環境と、花を咲かせて実を採る環境は別だと思う。このインターネットの時代に、わざわざ東京に仕事を持っていって、東京で仕事をして、東京で消費する必要があるのか。仕事は東京からいただく。地方のほうが労働環境としてはいいんじゃないかと思うんですね。この私の研究室から、昼休みに車で7分行くと青々とした海。反対側に5分行くと、もう町なかです。例えば昼休みは2時間ぐらいとって、海でサーフィンやって、また午後から仕事やって、夜はどこかの芝生の上でみんなと語らいながら生ビール飲むと、そういう生活があったっていいんじゃないか。私なんか以前は、毎週土日、海岸近くの乗馬クラブから大学まで馬で通っていました。所要時間は1時間。


— 馬ですか。

山川  この部屋に張ってある写真が私の馬。名は泰山(たいざん)といいます。大学のすぐ前にあるレストランの前で撮ったものです。

東京は情報が非常に豊富で、伝わるにも早く、それに乗っからないと遅れるようだけれども、外からじいっと見ていると「ノイズ」にも見えるんですよ。誰かが試しに「こうじゃないかな?」と言ったら「どうもそうらしい」「いや、そうだ」というのがいつの間にか独り歩きし、みんなばたばたしていてね。そのうち静まるでしょう。そうすると、じゃああれ何だったんだと。随分無駄なエネルギー使っているよなと思う。われわれのように田舎に住んでいると、本当に大事なものしか入ってこないから、それだけ待っていればいいんですよ。口開けて待っていればいいわけじゃないけれども、そういう大きなえさが来るとき以外は、1人でいろんなことを考えておけばいいわけですよね。だから、本当にじっくり落ち着いてできるんじゃないかなと思います。


— ありがとうございました。

*1
この前期の講義は13コマ必要なのですが、会社の種類、会社設立の手続き、マネジメントからマーケティングなど5、6コマしか私には思いつかない。いかに自分がそういうことに関して知識が貧弱かということを痛感した。これはいかんなと思って、早稲田大学の松田修一先生に電話をして、実はこういうことを考えていて、ぜひ先生のお力添えを願いたいと言ったら、「え、理工系でそんなことやるんですか? いやぁ、面白いですね」と協力をしてくれることになった。講師には松田先生のほか、弁理士、公認会計士、弁護士などにもお願いした。(山川)

*2
ちょっとアルバイトしてお金を稼ぐか、あるいは親からちょっと借りるかすれば会社をつくれるんですね。情報工学部ですから、コンピューターを道具として仕事をやる人がほとんどで、アパートの1部屋とコンピューターと電話、ファクスで仕事ができるわけですよ。それも起業しやすい原因だったのかもしれません。それで、結構会社が起きましたね。(山川)

*3
僕は、昭和の時代に、台湾の新竹工業園区というところに視察に行ったんですよ。ここはすごいですよ。5年たってもほぼすべてのベンチャー企業がちゃんと健全に動いているという。卵からふ化させ、ふ化してよちよち歩きのときに、国が物すごいケアをする。日本はどうかというと、水とえさだけ置いておいて「はい、食べるか? 食べるか?」。まだよちよち歩きなのに、成果、成果と迫る。必要に迫られてやっているんじゃなくて、周りから言われてしようがなくて、ベンチャー、ベンチャーと言ってる感じがしますね。(山川)