2010年6月号
特集2  - ライフ・イノベーション
日本のライフイノベーション創出に必要な要件とは
顔写真

川上 浩司 Profile
(かわかみ・こうじ)

京都大学大学院医学研究科 薬剤疫学 教授



人口減少、超高齢社会を迎える日本で、次世代の基幹産業として医療、健康、医療機器などへの期待がかかる。政府の成長戦略におけるライフイノベーションである。京都大学大学院医学研究科薬剤疫学教授の川上浩司氏は、基礎研究、技術力向上に加え、臨床研究と治験を一体化させたIND制度や、医療機器を用いた臨床研究(開発)を一元的に行うIDE制度を導入して薬事制度を改革することが必要と訴えている。

ライフイノベーションの必要性

日本の人口は現在約1 億3,000 万人であるが、30 年後には9,000 万人台となることが予想されている。さらに、日本は保健衛生、医療の向上の成果から、世界史上まだどの国も体験したことのない、未曾有の超高齢社会を迎えることになる。納税人口が現在に比べて少なくとも4分の3以下になり(税収の低下)、さらに医療や介護の必要な高齢社会となったとき(社会保障費用の増大)、日本が国民の社会保障を維持していくためには、さまざまな改革が必要であることは論をまたない。少なくとも人口が減る日本が税収を維持していくためには、国際的な基幹産業を育成し、外貨をしっかりと稼いでいくことは重要である。新興国からの追い上げや国際的な生活環境の変化から、現在の日本のけん引産業である自動車産業が必ずしも30 年後に日本のけん引産業であり続けるかは疑問である。そのため、われわれは、次世代の基幹産業が何かをしっかりと見極め、持続的なイノベーションの可能性を育て投資を続けていかなければならないのである。

さて、次世代の基幹産業として有力な候補であるのが、医療、健康や医療用品である。日本人の長寿や健康観は世界からも高く評価され、また、医薬品創出の能力も現時点では日本は世界のトップクラスにある。われわれが日本の強みを生かしていくためには、新規の医薬品や医療機器を創出し、世界に発信していくこと、超高齢社会の中で健康の価値や質の高い医療を提供できるという実力を世界に示すことは重要である。健康の価値という意味では、日本で高齢者が健康で幸せな生活を送れるためのありとあらゆる努力をすれば、国際社会に対してその方法論やコンテンツを輸出することができるのみならず、世界の富裕層が日本に移住する、あるいは別荘を設営するようになるかもしれない。ひいては、彼らによって日本の税収も上昇し、また教育の観点からも英語による初等教育に協力していただくことができれば、日本が苦手とされている国際的視野を持った人材の育成にも役立つであろう。

臨床試験制度と医薬品、医療機器開発の振興

臨床試験制度と医薬品、医療機器開発の振興要な臨床試験に係る制度は諸外国に大きく遅れをとっている。臨床試験は、大きく分けて3 つの立場から議論されることが多い。(1)製薬企業の立場から、治験を活性化、迅速にしていかなければならないという立場 (2)大学等研究機関の立場から開発型の臨床研究であるトランスレーショナルリサーチを推進していくという立場、そして(3)国民の安全を守るという規制当局から見た立場である。わが国において、薬事法とは医薬品企業を製造、販売・流通の面から規制するものであり、(1)と(3)を中心に設置、運用されてきたものの、(2)も含んでこれら3 つすべてが齟齬(そご)なく円滑に進むようにするためには整備されていない。いまでも治験と(未承認薬の)臨床研究は違う制度で実施されており、このダブルスタンダードは非常にややこしく時間のかかる開発環境をもたらしてきた(図1)。米国等では、臨床研究と治験とを一体化させたInvestigational New Drug(IND)制度が存在し、スムーズな医療応用化が行われている。IND 制度のメリットは、臨床試験がGoodClinical Practice(GCP)のもとで実施されるために、日本で言うところの臨床研究のような初期段階の臨床試験のデータもすべて将来的な薬事承認に使用できるというところにある。知的財産の観点から考えると、医薬品開発は完全な特許−マーケット対応型のビジネスであるにもかかわらず、IND制度がないと臨床試験のスタートから終了までに回り道を含めて時間がかかり、特許の取得から実用化後の商業年数が減少してしまう。必然的に、大学などの研究機関で研究された成果の応用化を、臨床研究ののちに製薬企業が開発を継承するインセンティブも失われている。もちろん、IND 制度が患者の安全、健康保護の観点から重要であることは言うまでもない。



図1 わが国における臨床試験の現状

また、医療機器の開発においては、医薬品を想定した薬事法の取り扱いに医療機器がなじみにくいという背景があり、さらに、医療機器GCP の発令以降、企業で試作した医療機器の候補品(プロトタイプ)を大学等で臨床研究として実施することが困難となった。医療機器の臨床試験は、使用者である医師の経験、技術や医療機関のレベルによって影響を受けやすく、また、同じ医師でも訓練によって医療機器の適正使用が行えるようになる(ラーニング・カーブ)といった特徴もあり、プロトタイプを用いた臨床研究を試行錯誤して行っていくことが必須である。米国においては、Investigational Device Exemptions(IDE)制度で一元的に医療機器を用いた臨床研究(開発)が規制によって管理、支援を受けているため、弾力的にプロトタイプを用いた臨床研究が行われている。



図2 米国における医薬品行政と社会・産業との関連

米国のIND、IDE 制度においては、大学等研究機関が開発した技術の初期開発を担うベンチャー企業があり、ある程度の成功が見込めるようになると、製薬企業等がライセンスを受け、国際的に販路を有する製造販売承認を取得する(図2)。このように各セクターがバトンリレーすることによって医薬品、医療機器は開発されていく。これに対して医薬品行政当局(FDA)は国民の健康を守るために科学的審査をしているが、FDA は特別会計で運営されており、連邦政府からの予算ではなく受益者つまり申請者からの手数料で多数の審査官を雇用している。申請手数料に関して、ベンチャーに対しては産業振興の観点からディスカウント料金が適用され、大学は無料となっている。このように、科学的審査にはディスカウントしないが申請費用で差をつけることによって、薬事観点からの大学への開発支援を行っているのである。

わが国において、ライフイノベーションを推進していくためには、基礎研究、技術力向上はもちろんのことであるが、クリティカルにはIND、IDE制度を導入して薬事制度を改革しない限りその実現は非常に困難である。IND、IDE 制度においては、規制当局も治験、臨床研究にかかわらずすべての臨床試験の審査を行うため、審査当局の経験値も向上しやすく、大学等研究機関に対する薬事的観点からの開発支援も間違いなく促進するであろう。

医薬品、医療機器開発段階におけるレギュラトリー サイエンスとは

スナック菓子の包装紙の裏面に表示されている食品原料となる植物の標記には、わざわざ「遺伝子組み換えではない」という記載があることがある。これは、消費者から見ると遺伝子組み換えの農作物は安全ではない、危険なのだという印象を持つことになるのが日本語の難しさである。私は、これは科学の及んでいない領域に対する一種ののろいの言葉だと思っている。つまり、科学的あるいは経験的に安全性が担保されているのならばよいのだが、(1)科学的根拠のない、あるいは(2)その根拠がきちんと伝えられていない場合(上記の例の場合には、遺伝子組み換え作物)は、忌避すべきもののようにこの商品はそうではないのですよ、と書かれているのである。ここで重要なのは、(1)については、科学的根拠がないのならば解明のための研究をきちんと行うということである。この場合には遺伝子組み換え作物の安全性を検証するための研究を立案、実行することになる。(2)は、科学コミュニケーション、また特に医療の分野ではヘルスリテラシー(健康情報)と言われる分野であり、科学、医学の研究成果をきちんと伝えていくための作業となる。レギュラトリーサイエンスの領域は、狭義には(1)の部分の科学ということになろうが、(2)の部分をもきちんと理解した上で科学研究の成果を施策立案者、行政実行者、生産者、そして社会に伝え、根拠に基づいたアクションへとつなげていくことが必須であろう。いずれにせよ、新しい社会医学分野としての振興が望まれるところである。

レギュラトリーサイエンスというと、和訳直訳すると規制科学や評価科学と訳されることから、規制をしてイノベーションの確度を落としてしまうような印象を与えることもあるが、これはまったくの誤りである。例えば、再生医療などに用いられる新規性の高い細胞を医療応用化する場合、その細胞が本当に目的臓器を形成するのか、がん化しないのか、感染症のリスクはどうなっていくのかといった懸念事項をクリアしない限り、規制当局からの承認を受けることはできない。そのため、研究開発の各段階において、同じ時間軸でその評価系も構築し、動物実験や臨床試験データから安全性の情報を取得していく、またその科学的結果を行政・規制のガイドラインへと反映し、承認を迅速化していくという考え方は、国際的にも推進されているところである。よって、先進的な研究にしっかりと安全性等の裏付けを与えることによって、そのゴール(社会での使用)を明確にしていくことは、イノベーションの確度を高めていくために大変に重要である。インフラ基盤としての共通認識として、行政からの支援が必要と考える。

おわりに

地球上には住むことのできるあらゆるところに人はおり、健康用品、医療用品はあらゆるところで使用が可能である。自動車における道路という基盤に相当するのが、医療用品においては人体そのものなのである。故に、日本発の商品は世界中で最も大きな潜在購買層を持っていると言える。もちろん、工学製品や電気製品とは異なり、安全性にかかわる医薬品や医療機器については、その担保のための規制が重要であり、前出のように、人類は薬事規制を確立、強化してきた。その上で、日本の医薬品産業、医療機器産業は、国内需要や日本の医療保険制度のみを対象とするのではなく、地球上に住む人類を対象として、新たなイノベーションを創出していくべきなのである。これは基幹産業として日本の国益に資するという観点からのみならず、世界の公衆衛生の向上、健康の増進という観点からも有益である。