2011年1月号
単発記事
歯科用接着性修復材料の開発
顔写真

和田 徹 Profile
(わだ・とおる)

元 株式会社クラレ
メディカル事業本部 開発部長


株式会社クラレが開発し、1978年に売り出した世界初の歯科用接着性修復材料の開発物語である。この接着技術を基本とする歯科医療の概念が「接着歯学」として確立され、世界の歯科医療の場で広く実践されている。

図1

図1 クリアフィルBS-F

1970年代は日本の産業・経済の発展が1つの頂点に達し、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と称賛されていた時代であった。しかし、歯科医療の分野では新しい治療器材や新しい治療コンセプトは欧米から輸入されてくるものばかりであったため、歯科のリーダー的な先生方には「日本で開発され、世界に誇れる歯科器材が欲しい」との強い願望が内在していた。こうした中、株式会社クラレは1978年に、世界最初の接着性充填(じゅうてん)修復材料「クリアフィル・ボンドシステム F」(クリアフィルBS-F;図1)を開発し発売した。当時の歯科材料事情、大学との協力関係を中心に、この開発物語を紹介したい。

接着性充填修復材料の商品企画

虫歯の治療は、[1]虫歯に侵された部分を機械的に削除し、[2]欠損部を整形して充填修復材料を安定に保持できる形状(窩洞:「かどう」と読む)にする、[3]歯科用セメントやアマルガム、あるいは鋳造した金属などを充填して修復する、という手順が一般的であった。1970年ごろからコンポジット(図2)と通称される材料が、歯科用セメントに代わる前歯部の充填修復材料として急速に普及した。

図2

図2 コンポジットの基本構成と重合硬化

このコンポジットは技術的に次のような特徴がある。

硬化物が半透明で窩洞周辺の歯の色に良くマッチし、審美性が良い
従前の歯科用セメントに比べて強度と耐摩耗性が格段に優れている

コンポジットは米国の3M社が当時、世界のトップメーカーであり、国内には同社製品に対抗できる技術レベルの商品がなかった。

筆者の勤務していたクラレは合成繊維企業から化学企業に変容しつつある時期にあり、その一環として医療分野への進出を模索しており、筆者はこのコンポジットに「事業チャンス」があると直感した。そこで歯科大学の諸先生や研究熱心な開業歯科医の先生方を訪問して臨床での詳しい使用実態を伺った結果、下記のような全く意外な実態を知ることとなった。

1. コンポジットでの修復は審美性が良いため患者には喜ばれるが、術後数カ月以内に歯の中心にある歯髄(しずい)が壊死(えし)を起こすケースが少なくない
2. 臨床的には窩洞の内側に歯科用セメントを塗付して歯髄壊死を防いでいるが、このような場合には歯の色との適合が悪くなる
3. 歯髄壊死の原因については、コンポジットに配合されているアミンの毒性によるなど諸説があるが、国際的にも定説がない

高く評価され汎用されている商品に問題があることは、事業的には大きなチャンスであり、筆者自身も歯髄壊死にかかわる数多くの論文を読み、 歯科大学の諸先生や臨床家の先生方から歯髄壊死が発生した際の詳しい状況をお聞かせ頂いた。これらの情報をもとに検討した結果、「コンポジットは重合硬化タイプであるため重合収縮によって窩洞壁との間に間隙(ギャップ)が形成され、そこに細菌が侵入して増殖し、酸などの細菌の代謝産物が歯髄を壊死に導く」との仮説に至り、「歯質に接着する材料を用いてコンポジットと窩壁とを接着することによって間隙の形成を防止することができれば、歯髄壊死の発生を効果的に抑制できる」と推論した。

そこで、表1に示すような構成の「接着性充填修復材料」を自社で開発することができれば、歯髄刺激問題を解決した世界初の商品となり、国内のコンポジット市場を席巻できるだけでなく、グローバルなビジネスを創出できることを確信し、本件の開発を社内提案し了承を得た。産学連携での“ニーズドリブン”の開発のスタートである。

表1 開発すべき接着性充填修復材料の構成

表1
接着性充填修復材料の開発

歯科材料の研究開発はクラレでは初めてのことなので、まず、探索研究を担当する研究員1名を社内で確保し、当時の歯科材料研究の泰斗(たいと)であった増原英一教授(東京医科歯科大学・医用器材研究所、故人)に「歯に接着する技術」の開発指導をお願いした。同研究所には、歯質に対する各種材料の接着力を測定する技術をはじめ、歯科材料の特性評価技術が集積されており、この後の研究開発をスムーズに推進することができた。

この研究開発は幸運に恵まれて、研究着手から半年ほどで「燐酸基を有するモノマー」が歯のエナメル質への接着にも、象牙質への接着にも有効であることを見いだすことができたので、研究員を岡山県倉敷市の中央研究所に戻して商品開発グループを設置し、当初目標(表1)の接着性充填修復材料の商品開発を推進することとした。

しかし、第一次石油ショック後の厳しい社内事情があり、主任研究員1名を追加配置して計2名の商品開発グループを形成するにとどまったため、「充填材の本体であるコンポジットは市販の他社商品と同等品、すなわち、イミテーション品で良い」として、未知のボンディング材の開発に全力を注入することとした。

ボンディング材開発の最初の大きな課題は、燐酸基を有する酸性のモノマーを含むボンドをどのようにして口腔内で重合硬化させるかであったが、クラレの貴重な技術財産であるPVA(ポリビニルアルコール)の合成研究に用いた多種多様な重合触媒の中にヒントを得て、独自の触媒系を開発することができた。これをもとにコンポジットの開発、リン酸エッチング剤の開発などを経て、商品レベルの試作品が完成した。

試作品について、構成成分の安全性試験と商品レベルの安全性試験とを行って臨床で使うために必要な安全性を確認し、さらに室温での保存安定性を確認して材料開発を終了した。

臨床ノウハウの確立から発売へ

次いで、臨床系の総山孝雄教授(東京医科歯科大学、故人)、石川達也教授(東京歯科大学)、土谷裕彦教授(大阪大学)など数名の先生方に安全性試験情報とともに試作品を提供し、実際の臨床での有用性と、接着機能を活かした新しい臨床使用術式の検討などをお願いした。なお、これらの先生方の臨床使用例では、期待通り歯髄の壊死は全く見られなかった。

平行して厚生省(当時)の認可(製造承認)申請/取得から、生産体制の整備、製品レベルでの歯髄刺激性の評価、指導的な臨床家による臨床試用等を経て、1978年の元旦を期してクリアフィルBS-Fを発売し、クラレの歯科事業をスタートさせることができた。

また、前記の歯科大学等での試作品を用いた先行研究により、次の2項目を中心に、臨床に即した多数の研究発表が歯科の学会等でなされた。

1. エナメル質と象牙質の双方に接着するクリアフィルBS-Fによって初めて緊密な窩洞の封鎖が達成され、細菌の侵入を阻止できること
2. コンポジットを窩洞内に保持するために、窩洞壁の健全な象牙質を削除してメカニカルな維持構造を形成する必要が無いこと

これらの学術研究報告によって、クリアフィルBS-Fに対する歯科医師の高い関心と強い支持を得ることができ、その後の歯科事業発展の大きな礎となった。

歯科事業の発展

表2 商品展開と対象分野

表2

クリアフィルBS-Fが歯科大学、歯科医師の間で広く使われるようになると、さまざまな先生方から製品の改良提案や新しい臨床分野への応用展開の提案をたくさん頂くようになった。

また、この成功により社内的にも歯科事業に要員を充当して頂けるようになったので、歯科医療(歯科市場)を指向している本社の開発スタッフと化学技術を指向している研究所の研究スタッフとでペアを組んで前記の提案に当ってもらうこととし、既存製品の絶えざる改良開発による市場の確保と新開発商品による事業対象分野の拡大とによって事業的な成長を図っている(表2)。

おわりに

偶然のことから歯科事業開発を担当することとなり、歯科大学との連携を軸に、[1]歯科医療におけるニーズを探索し、[2]そのニーズを満足する新商品を高い技術レベルで開発し、[3]豊富な臨床情報とともに提供する―ことで、発展性のある新たな事業を創造することができた。

この「接着」を基幹技術とする歯科医療は、現在ではムシ歯の治療に留まらず、各種の歯科疾患の予防から喪失した歯の補綴にまで拡大しており、世界の歯科医療の場で実践されている。また、それに呼応して「接着歯学」という新しい学術分野が形成され、日本の歯科学会が世界のリーダーとなっている。

なお、理工学系の技術を有する企業が医療器材の開発を行なう場合には、企業の手が及ばない臨床ニーズ情報と開発試作品の臨床評価機能とを有する臨床系機関が最適のパートナーであった。