2011年4月号
インタビュー
青色LED実現への道
未到の領域「われ一人荒野を行く」
顔写真

赤﨑 勇 Profile
(あかさき・いさむ)

名城大学教授/
名古屋大学名誉教授・特別教授


 名城大学教授(名古屋大学名誉教授・特別教授)赤﨑勇は、名古屋大学教授 だった1989 年、窒化ガリウム(GaN)のpn 接合による高性能の青色発光ダ イオードを世界で初めて実現した。三原色のうち青色の光はエネルギーが最 も大きく、20 世紀中の実現は困難とされてきた。
 当時、青い光を出す半導体の数種の候補の中で、ほとんどの研究者が「難し い」「不可能」として手をつけなかったり、諦めて撤退していく中、赤﨑は、 窒化ガリウムを本命と見て、一貫した研究活動により、明るく、しかも優れ た電気的特性を持つ発光ダイオードを作るのに必須な「高品質の単結晶」を実 現し、「結晶の電気伝導の制御」を達成した。
 豊田合成株式会社は1987 ~ 90 年、新技術開発事業団(現・科学技術振興 機構)の「委託開発」制度を活用し、赤﨑の技術による青色発光ダイオード事 業化を目指した。開発は成功し、95 年から事業化された。3原色がそろった ことにより、応用分野が広がり、多くの新産業を生み、新たな雇用も創出し た。国に多額の特許実施料収入ももたらした。
 赤﨑の研究の成果は、化合物半導体研究の世界に一大センセーションを巻 き起こしただけでなく、産業界への影響度でも画期的なものである。
 「未到の領域だからこそやりがいがある」と、青い光と窒化ガリウムに挑戦 し続け、不可能を可能にした研究をたどる。(敬称略)

写真

赤﨑教授とその研究グループが作った 「MOVPE 装置」1 号機の反応管部の復元模型
(名古屋大学赤﨑記念研究館)の前で

第1章
結晶、物性、デバイスは不可分

1952 年、京都大学を卒業した赤﨑勇は神戸工業(現・富士通)に入社した。担 当したのは、国産を目指していたテレビ用ブラウン管の蛍光面の開発。これが、 赤﨑とルミネッセンス、すなわち熱によらない発光現象との運命的な出会いであ り、光る半導体をライフワークとした赤﨑の第一歩である。

1959 年に、誘われて助手として名古屋大学に移った。そこで、半導体の結晶成 長の研究に着手。当時、ゲルマニウムが半導体研究の最も重要な材料だった。赤 﨑は、これを自力で作ることを考え、アフリカのコンゴから酸化ゲルマニウムを 輸入し、研究室で水素還元してインゴットを作った。次は単結晶を作った。その 単結晶を基板として、ガス状ゲルマニウム化合物を基板上で熱分解して、析出す るゲルマニウムを基板上に一層ずつ積み重ねる、いわゆる気相エピタキシャル成 長によってゲルマニウムの単結晶薄膜を成長させた。これは日本ではほとんど初 めてのことだった。赤﨑はその成果を博士論文にまとめた。また、拡散法のほか、 エピタキシャル成長法によるpn 接合を作り、特性を調べた。

この間に、半導体研究の独自の方針を確立していった。すなわち、結晶(高品 質の単結晶を自分の手で作る)、物性(結晶の物性が、作り方でどう違うかを自分 で調べる)、デバイス(品質を高めた結晶を用いてデバイス応用を究める)の3つ は不可分で、それらを総合的に研究することである。

デバイス開発は結晶づくりから

赤﨑 半導体単結晶は、とても構造敏感です。ストラクチャー・センシ ティブと言います。磁性体や誘電体は通常、多結晶(焼結やスパッタ膜)を 使いますので、あまり“構造敏感” とは言いません。ところが半導体単結晶 の性質は、わずかな不純物や格子欠陥に大きく影響されます。

私は、名古屋大学でゲルマニウムの単結晶を作っていた若いころ、この ことを実感しました。当時は技術が未熟なこともあり、ある人が出してい るデータと、自分のところのデータが違ったり、同じ人のデータでも作っ た日や、もちろん作り方でも違うんですね。これでは困る。

もちろん、誰が何月何日にこういう条件で作った結晶のデータはこうで すと言えば素性は分かります。でも、それが真性の値かどうか分かりませ ん。

私は、自分で物性研究に使う結晶は全部自分で作り、素性のはっきりし ている結晶を使うことにしました。ところが、結晶作りは泥臭いところが あるので、大学院生の中には毛嫌いする学生もいます。理論計算や、(現在 では)パソコンで仕事するほうがスマートに見えますから。でも、私の研 究室では上の方針を通しました。

自分で作った結晶の特性を自分で調べる。こういう条件で作った結晶は こういう性質である、それを作り方にフィードバックして、こういう性質 を持たせるには次は温度を何度まで上げなければいけないといったような ことがわかる。そういうことをくり返して納得した結晶ができたとき、そ れを使ってデバイスを作る。だから、デバイスだけをやろうという人に とって、結晶-物性-デバイスをすべて関連付けて研究することは一見遠 回りで、効率的ではないように感じられるかもしれませんが、それらは相 互に密接に関係していて、独立に考えることはできません。

第2章
研究はHow より、What が大事

名古屋大学で行ったゲルマニウムのエピタキシャル成長の研究の成果を学会や 研究会で発表したことが、当時東北大学教授の小池勇二郎氏(後の松下電器産業 東京研究所長)の目にとまり、1964 年、赤﨑(当時助教授)は同研究所に移った。 赤﨑の研究室は、ヒ化ガリウムの純度の高い単結晶を作り、その物性を調べるこ とから始めた。発光デバイスの材料として、ヒ化ガリウム、リン化ガリウムなど の化合物半導体が注目され始めていた。ヒ化ガリウムの半導体レーザーが発振し て間もないころだった。

気相エピタキシャル成長法で、(当時)世界最高の電子移動度を持つヒ化ガリウ ム単結晶を作り、その物性研究の成果をモスクワで開かれた半導体物理の国際会 議で発表、注目を浴びる。次いで、リン化ガリウムのバルク単結晶を日本で初め て液体封止高圧引上(LEC)法で作り、さらに(それをスライスした単結晶を基板 にして)リン化ガリウムの気相および液相エピタキシャル成長の研究を行った。 そのころ、ヒ化ガリウム基板上へのヒ化リン化ガリウム単結晶膜の気相エピタキ シャル成長の実験結果に注目した半導体の世界的権威、ピアソン教授(元ベル研、 当時スタンフォード大)との交流が始まった。

1960 年代、赤色および黄緑色のLED と赤外の半導体レーザーはできていたが、 実用的青色LED の実現の見通しは全くなかった。1960 年代半ば、「高効率青色発 光デバイスの開発」と「半導体レーザーの室温連続発振」の2つは、化合物半導体 の研究者にとっての大きな課題であった。

赤﨑は前人未到のpn 接合型高性能青色発光デバイスの実現こそ、自分のやる べき仕事だと心に決めた。

一方、(このことは、あまり知られてはいないが)ほとんど同時に可視光(赤色) 半導体レーザーの実現を目指した実験も始めた。つまり、LED は青色、赤外しか なかったレーザーは可視光をと、いずれも未到への挑戦であった。そして、可視 光レーザーの方はイリノイ大より少し遅れたが、1979 年10 月赤色レーザーの発 振に成功した。

さて、話を青色発光デバイスにもどすと、1960 年代後半、高効率の青色発光デ バイスを実現する材料の候補として、セレン化亜鉛、シリコンカーバイド、窒化 ガリウムの3つが研究されていた。多くの研究者が、当時からpn 接合ができて いたシリコンカーバイドや、pn 接合はできていなかったものの、窒化ガリウムに 比べてやりやすいセレン化亜鉛に取り組んだが、赤﨑は窒化ガリウムに狙いを定 めた。少数派であった。

1969 年、マルスカらが窒化ガリウムの単結晶を作り、それを用いてパンコフら がMIS(金属・絶縁体・半導体)型青色発光ダイオード(LED)を作ったのに刺激さ れ、窒化ガリウム青色LED の実現を目指す研究が盛んになったが、世界中の研究 者の取り組みにもかかわらず、結晶品質は一向に良くならず、またp 型結晶は実 現出来ず、1970 年代後半には多くの研究者が窒化ガリウム研究から撤退した。ま た一部の人はセレン化亜鉛に転向して行った。

なぜ、窒化ガリウムか

赤﨑 青色光は3原色のうち波長(エネルギーに反比例)が最も短い光 (JIS では455 ~485 ナノメートル)です。従って青色発光を実現するには、 (1)エネルギーギャップが2.6eV(電子ボルト)(480 ナノメートルに相当) 以上の半導体の使用が必須(要件(1))です。このようにエネルギーギャッ プの大きい半導体は“ワイドギャップ半導体” と呼ばれています(ちなみに 従来から広く使われているシリコン半導体のそれは1.1 eV です)。次の要 件は、(2)直接遷移型半導体であることです。伝導帯の底部にある電子と、 価電子帯の頂部にある正孔の運動量が等しいのが直接遷移型です。シリコ ン半導体など、間接遷移型半導体は発光効率が低いのに対し、直接遷移型 は、電子・正孔の再結合確率が高く、高効率発光が可能です。

しかし、(1)(2)の要件を満たすだけではまだ不十分です。これらを満 たす半導体の(3)高品質の単結晶が不可欠です。単結晶とは対象としてい る結晶が(微小結晶の集合ではない)一様な結晶を言います。さらに、高性 能の青色LED を実現するには、(4)pn 接合が必須です。半導体には、電界 によって自由に動くことのできる正孔の数が伝導帯電子の数より多い(電 気的には正の)p型半導体と、電子が正孔より多い(電気的には負の)n型 半導体があります。単結晶の、ある原子面を境として片側がp型半導体、 反対側がn型半導体である構造をpn 接合と呼びます。pn 接合は半導体デ バイスの基本構造の一つです。このpn 接合に、わずかな順(方向)電圧を 加えると、n領域の電子はp領域に拡散(移動)し、一方、p領域の正孔はn 領域に移動し、接合部付近で電子と正孔が発光再結合するのです。そのと きの光子のエネルギーはエネルギーギャップにほぼ等しい。このpn 接合 を実現するには、p型およびn型の電気伝導を制御する必要があります。

青色発光デバイス実現のための第1の要件を満たす材料のうち、シリコ ンカーバイドはワイドギャップ半導体の中では唯一、pn 接合の作製が可能 だったので、海外でもわが国でも研究がされていました。しかし、間接遷 移型で、高い発光効率が期待できない。私は、「ある程度の発光ダイオード はできるかもしれないけれども、実用的なものは無理」と、発光素子材料 としてのシリコンカーバイドには最初から関心がありませんでした。

では、直接遷移型のセレン化亜鉛と窒化ガリウムはどうか。大部分の研 究者はセレン化亜鉛をやっていました。セレン化亜鉛はよく光ります。窒 化ガリウムに比べると成長温度もうんと低く、圧力も低いし、やわらかく て加工しやすい。特にp型のセレン化亜鉛は、300 度とか200 度とか非常 に低い温度で作ります。

発光ダイオード開発の先には必ずレーザーがあります。これは電流をた くさん流します。そういう過酷な条件に耐えるためには、作りにくい安定 な材料が必要です。窒化ガリウムは非常に硬くて、厄介な材料です。しか し、なんとかして良い結晶を作った暁には、信頼性の高いデバイスができ ると信じていました。

窒化ガリウムの研究をやめたり、セレン化亜鉛の研究に移った人たちの 中には、1989 年に私たちがpn 接合を作ったあとに、また窒化ガリウムに 戻ってきた人もいました。

皆さん、格子定数が近いヒ化ガリウム結晶を基板とするエピタキシャル 成長が可能なセレン化亜鉛を選んでいたのです。私は最初から窒化ガリウ ムを取り上げ、この方針を全く変えませんでした。

研究は、どういうふうにやるかということよりも、何をやるかというこ とが、つまりHow よりもWhat がより大事だと私は思います。

基板とのミスマッチ

赤﨑 ダイヤモンドは1,200℃、5万2,000 気圧くらいの地殻の中ででき た炭素の結晶です。一方、窒化ガリウムは精確なところは分かりませんが、 融点が2,530℃以上、窒素蒸気圧は4万5,000 気圧ぐらいです。

こんなに厄介なものを地上で、しかも高品質の結晶を作るのが窒化ガリ ウム結晶の研究です。

窒化ガリウムの結晶は原子同士の結合が強く、同じように硬いサファイ ア基板の上に成長させると両者とも自己主張して、窒化ガリウムは小さな 結晶になって、きれいにつながらない。

シリコンの上にシリコンを作るというように、成長させる物質と基板が 同じ場合はホモエピタキシーといい、これはよくやられていることです。 原理的には界面エネルギーがないからきれいに積めるのです。しかし、窒 化ガリウムは基板となる窒化ガリウムのバルク結晶がない(なかった)の で、異なる結晶を基板として作らざるを得ない。これをヘテロエピタキ シーといいます。通常、基板としてサファイアを使います。一般に、ヘテ ロエピタキシーの場合、格子定数差があったとしても許されるのはせいぜ い0.5%から1%弱ぐらい、1%のものでもうまくいかない。ところがサ ファイア上の窒化ガリウムは、ミスマッチは16%。これはとても大きなミ スマッチなのです、エピタキシャル成長にとっては。

われ一人荒野を行く

分子線エピタキシー、次いでハイドライド気相成長法で窒化ガリウムの単結晶 に挑戦した。ハイドライド気相成長法で作った結晶をもとに、当時としては世界 一明るい青色発光ダイオードを作った。それをランプにした。

赤﨑 松下の研究所にいた1978 年、pn 接合ではありませんが、MIS ダイ オードとしてはこれ以上はないというようなものを作りました。従来のも のに比べると2けたぐらい明るかったんです。トップの目にとまり、こん な素晴らしいものがあるんだったらPR しようというのでシカゴのショー に出展して話題を呼びました。一方、化合物半導体の国際会議が1981 年 に日本ではじめて開催されたとき、開発した技術を発表しました。窒化ガ リウムでは初の選択成長による優れた構造は、相当関心を呼ぶだろうと 思ったんです。ところが何の反応もない。全くなかった。そのときの論文 集からもわかりますが、窒化ガリウムに関する発表をしたのは私たちだけ だった。あとでわかったことですが、有力な研究所(者)はそのころはすで に窒化ガリウム研究をやめており、会場にいた誰一人として、窒化ガリウ ムに関心を持つ人がいなかったのでしょう。そのとき、私は思わずつぶや いてました。「われ一人荒野を行く」と。

第3章
ブレークスルー

窒化ガリウムは自然界には存在しない。高効率の発光デバイスを実現するには、 前述のように、まず高品質の結晶が不可欠(第1の課題)であり、それを電気的に 制御する(第2の課題)必要があった。

ブレークスルー Ⅰ.結晶成長

赤﨑 分子線エピタキシー、ハイドライド気相成長法では、満足な窒化ガ リウムの結晶は得られませんでした。

そのころ、私は貴重な経験をしました。結晶成長を続けながら、毎日、 蛍光顕微鏡で結晶を眺めていましたが、ピットやクラックだらけの結晶の 中に、ごくまれに大変きれいな微小結晶が含まれていることに気付いたの です。これは私に大きな勇気を与えてくれました。何とかしてウエハ全体 をこの微小結晶のように作れば、表面はぴかぴかになるだろう。そのとき は、恐らく結晶中の不純物や欠陥も少なくなっているだろうから、適当な アクセプタ不純物をドープすれば、きっとp 型結晶も実現できるはずだ ――と確信するに至りました。

問題はこのきれいな微小結晶と同等の品質の結晶をいかにしてウエハ全 体に広げるか、ということです、これは正に結晶成長の問題です。

1978 年、結晶成長の原点にたち返り、それまでの10 種類以上の半導体 結晶成長の経験をもとに、高品質の窒化ガリウム結晶を得る成長法として どれが適しているかを検討しました。窒化ガリウムの成長法として、分子 線エピタキシーやハイドライド気相成長法のほか、MOVPE(有機金属化合 物気相成長)法(OMVPE 法、MOCVD 法ともいう)などがあります。窒化 ガリウムは窒素蒸気圧が高いので、超高真空中で行う分子線エピタキシー は適しているとはいえない。また、ハイドライド気相成長法はナノメート ルオーダーの結晶の成長を制御するには、成長速度が速すぎる。また、可 逆反応のため、高品質化には向かないと考えました。MOVPE 法は、1971 年にマナセヴィッツらが窒化ガリウム成長に試みましたが、良い結果が得 られず、そのあと窒化ガリウム成長には全く用いられていなかったのです が、これは熱分解反応を用いる方法で、逆反応はなく、成長速度も分子線 エピタキシーとハイドライド気相成長法の中間なので、サファイア基板と のミスマッチの大きい窒化ガリウムの成長には、ほかの方法よりずっと適 していると判断しました。

1979 年、窒化ガリウムの成長にはそれまでほとんど用いられていなかった MOVPE 法を採ることを決意し、基板には当面(将来、窒化ガリウム基板が使える ようになるまで)サファイアを用いることにした。

1981 年8 月、赤﨑は教授として名古屋大学に戻った。直ちに、窒化ガリウムの 結晶成長用MOVPE 装置を学生らと手作りし、窒化ガリウム結晶成長の研究に本 格的に取り組んだ。

しかし、基板のサファイアと窒化ガリウムとの間の大きなミスマッチ(格子定 数、熱膨張係数など)が大きな障壁となり、伝導性制御に必要な品質にはほど遠 い結晶しか得られなかった。

この閉塞状況を打破したのが1986 年に赤﨑らが開発したMOVPE 法における 「低温堆積AlN バッファ層技術」である。大きなミスマッチに起因する界面エネル ギーを緩和するため、窒化ガリウム単結晶を成長させる前に、緩衝層(バッファ 層)として、単結晶ではない薄層を基板(サファイア)の上に低い温度で薄く積ん でおく方法である。このバッファ層は、かなり低温で積むので非晶質の薄層にな る。この技術により、クラックやピットの全くない無色透明の窒化ガリウム単結 晶を作れるようになった。

MOVPE 法における「低温堆積AIN バッファ層技術」により、窒化ガリウム結晶 の結晶学的、光学的、電気的特性など全ての重要な特性が同時に、従来に比べて 格段に向上した。赤﨑が当初予想したようにこのブレークスルーが、高効率の発 光デバイスを実現するための第二の課題(伝導性制御)を解決するのに不可欠で あった。低温バッファ層技術は世界のスタンダードになった。

赤﨑 低温バッファ層技術は、基板のサファイアと窒化ガリウムの著しい 不整合をなんとかしたいと苦しんでいたとき、ふと浮かんだアイデアから 生まれました。私たちがバッファ層技術で成功して、その年の秋に結晶成 長の研究会で発表したとき、「そういうことはあり得ない」「そんな大きな ミスマッチでエピタキシーができるのですか」などと言われました。時の 経過とともにだんだん分かってくださるようになりましたが。

ブレークスルー Ⅱ.伝導性制御

赤﨑 高品質の結晶を実現した後、次の重要課題はpn 接合の実現です。 低温バッファ層の導入によって、結晶の残留不純物や欠陥を大幅に減らす ことに成功したので、この結晶にアクセプタとして亜鉛をドープすればp 型ができると思い、その実験を繰り返しました。

1988 年のある日、(当時)院生の天野浩君が亜鉛ドープの高品質結晶の カソードルミネセンスを測定しているとき、亜鉛が関与する青色発光がス ペクトル不変のまま強度が何十倍も強くなることを見つけました。これは 試料のフェルミ準位が変化したためだ――と直感しました。p 型に変換し ている可能性があると思ったのですが、p 型にはなっていませんでした。

窒化ガリウム(結晶)がp 型になるには、ガリウム原子を置換したアク セプタ不純物がイオン化(活性化)しなければなりません。

そこで、亜鉛、マグネシウムおよびガリウムの電気陰性度について、 フィリップスによって修正された値を調べたところ、この3者の関係から 亜鉛よりマグネシウムのほうが活性化エネルギーが小さい(活性化しやす い)ことに気付きました。そこで、有機マグネシウム化合物を輸入しそれ を用いてマグネシウムのドーピングを行いました。

そのマグネシウムをドープした高品質結晶に、亜鉛ドープのときと同様 に低速電子線照射を行ったところ、マグネシウムが関与する青色発光のス ペクトルが不変のまま、その強度が著しく増大するとともに、結晶が低抵 抗のp型伝導に変換している(ホール効果などで確認)ことを発見しまし た。1989 年のことです。

この「窒化ガリウムにおけるp型伝導の発見」は、窒化ガリウムではp型結晶の 実現は不可能ではないかとされていた学説を打ち破るものであり、窒化ガリウム 研究における第二のブレークスルーであった。

直ちに、窒化ガリウムのpn 接合による青色LED を世界に先駆けて実現した。

一方、n型結晶の伝導度について新たな問題に気が付いた。結晶の純度が高く なったのに伴い、n型結晶の抵抗が高くなったのである。結晶が高品質化したため であるが、実際の素子作製では広い範囲にわたって伝導度を制御する必要がある。 赤﨑らはシリコンが窒化物中でドナーとして振る舞うことを見いだし、1989 年、 低温バッファ層技術で作った高品質結晶にシリコンをドープすることによって、n 型伝導度を広範囲に制御することに成功した。

第4章
優れたシーズ、企業の熱意、支援制度

1987 年から青色LED の事業化に向けた取り組みが始まった。赤﨑を代表発明 者、開発実施企業を豊田合成株式会社として、新技術開発事業団(現・科学技術 振興機構=JST)の「委託開発(独創的シーズ展開事業)」に選定された。開発期間 は同年から1990年までの4年間で、開発費として5億5,000万円が同社に支出(返 還済み)された。

開発は成功し、1995 年から事業化された。JST が、1997 年から2005 年までの 9 年間の青色LED の経済波及効果を調査したところ、携帯電話、大型カラーディ スプレーなど、青色LED を利用した最終応用製品の総売り上げは3兆6,000 億円 に達していることがわかった。この間、この委託開発テーマ「窒化ガリウム (GaN)青色発光ダイオードの製造技術」は、国に対して、青色LED 単体の特許の 実施料として約46 億円の収入をもたらした。調査した2006 年度当時、同特許は 国有特許による実施料収入の約9割を占めていた。

応用製品の売り上げ3 兆6,000 億円のうち、豊田合成の青色LED が生み出した 新産業、言い換えると、日本産業におけるその付加価値は3,500 億円弱にのぼる こともこの調査からわかった。その結果、約3 万2,000 人の雇用が新規に創出さ れた。

赤﨑 豊田合成での事業化のきっかけは、名古屋の経済界の人たちに講演 したことでした。私の研究は高品質単結晶の作製は成功しましたが、pn 接 合の実現はこれからというときでした。当時、大学は、いまほど産学連携 に積極的ではなかったのですが、名古屋大学工学部には、「大学にシーズが あって、それが新しい産業の芽として役立つならばいいのではないか」と 考えている人は何人かいました。

そういう機運があったところに、名古屋商工会議所の会頭さんが工学部 長のところに、「経済界トップに、名古屋大学の先生がどういうことをやっ ているかを紹介してほしい、大学の研究を事業に生かしたい」と頼みに来 られました。1 回目は工学部長が講演し、3回目の講師が私でした。1985 年11 月11 日のことです。

当時は日本の半導体の黄金期。半導体は高級な電子機器だけでなく、電 気釡でも洗濯機でも使われるようになっていました。そういう時代でした から、半導体素子の中でも最もポピュラーなLSI の話をしました。係の人 から「先生、あと5分ですからご自分の研究のことをご紹介ください」とい われ、窒化ガリウムのきれいな結晶ができたこと、そう遠くない将来にpn 接合というのができると、高性能の青色の発光ダイオードやレ-ザーダイ オードなどができるだろうということを紹介し、講演を終えました。

講演終了後、10 人ぐらいばっと演壇の周りに来て、収拾がつかなくな りました。司会の方が、会頭さんに私を紹介するというので、「先生にご用 のある方は後日、直接コンタクトしてください」ということでその場は収 まりました。翌日、訪ねてきた中の1社が豊田合成でした。そのとき、私 が「断った」とよく言われますが、最初から断ったわけじゃない。すぐには 無理、まだ時期が早いと思っていました。私自身はpn 接合の実現に専念 したい。一日でも早くそれをやりたかったんです。

でも、どうしてもうちにやらせてほしい、と豊田合成から何回も依頼が ありました。とうとう社長まで来られました。私は、これは世界中でまだ 私のところしかできていないこと、また、窒化ガリウム半導体は相当難し い仕事だということを説明しました。同社には半導体の研究者・技術者が いないということも知っていました、応用する人はいたけれども。だから 「ちょっと早いんじゃないでしょうか。そのときが来たら、連絡しますよ」 というようなことを言ったんです。

一方、新技術開発事業団から「委託開発」による事業化の話がありまし た。あとでお聞きしたところでは、石田(秋生)さんが名古屋大学の私の研 究室に来られたのは、私が名古屋商工会議所で講演する9日前の11 月2 日だったようです。ほぼ同時に、企業と支援機関の双方から要請があった ことになります。石田さんは、私たちのバッファ層を用いた高品質結晶の フルペーパー(1986 年4月2日)が米国の専門誌に出る前、応用物理学会 での発表を聞いて何か予感があったのでしょうね。あの方の勘でしょう。 その後、何回も電話がありました。石田さんは熱心でしたが、私は、pn 接 合の実現をはじめ、やりたいことが一杯あって「企業の人の指導に時間を とられるのは、今は困る。委託開発を受けるのはちょっと勘弁してほしい」 とお引き受けしませんでした。しかし、彼は諦めず、何回も申し入れがあ りました。

そうこうするうちに半年以上経ちましたかね。豊田合成、新技術開発事 業団の両方とも熱心でしたね。悩みましたけれども、最後は浪花節的に なっちゃうけれども、両者の熱意にほだされて、断れなくなってしまった。 豊田合成での事業化を決断するまで8カ月ぐらいかかったでしょうか。

新事業の柱に

赤﨑 途中でこんなこともありました。ある日、事業団から電話があって、 「先生、豊田合成に大体お決めいただいたようですが、ぜひ一度、同社の研 究開発の現場を見ていただけませんか」という。それで訪ねてみたら、気 持ちのいい会社ではあったんだけれど、確かにすべて自動車部品で、半導 体は全くやっていないんですよ。私は後戻りしそうになっちゃった。ここ で大丈夫かなと。

事業化を成功させる最大の要因は、企業の意欲、熱心さです。豊田合成 の事業は車のゴム、樹脂製品が主なのですが、求人のときなど、当時の常 務は「先生、脱ゴム、脱樹脂で何かやりたいんです」ということを言ってい ました。例えば、同社は車載用として小さな赤とか緑のLED ランプを使っ ていたんですって。それで、若い人はピンと来たんですね。あとで私が聞 いた話では、青が使えるようになると車載以外にも使えるという話があっ たり、何も知らないのも同じだから、窒化ガリウムが難しいのに怖いもの 知らずで、赤﨑先生に教えてもらって青をやろうやという人もいたらしい ですね。結局そうした声が強かった。しかし、これは私の個人的感想です が、当時の根本社長が偉かったんですよ。最後のデシジョンは。忙しいの に私の時間に合わせて来てくださったんです。あとのことですが、一度来 てほしいというので会社に行きました。形ばかりの記念講演をしたんです が、そのとき課長クラス以上全員を集めて、「こういうことをするんだ」と 決意を述べられました。私は、もう後には引けないと思いました。

徹底的に鍛えた

赤﨑 豊田合成の人がよく言っていますが、まさに大学、企業、支援機関 の三位一体の成果だと思います。JST 前理事長の沖村(憲樹)さんの表現を 借りると、私たちのシーズがよくて、豊田合成が熱心で、それからJST に そういう制度があって、それが非常にうまくかみ合った例でしょう。

“高性能のpn 接合青色発光デバイスの実現” という、自分がやりたいこ とに集中したいという思いが強かったのですが、豊田合成での委託開発が 決まってからは、同社社員を徹底的に鍛えるのにだいぶ時間を割かれまし た。半導体のイロハからやりました。

この豊田合成の指導とは別に、われわれがpn 接合を実現したのは、豊 田合成とのお付き合いが始まってから2年半ぐらいたってからです。

同社も努力された。でも、今になって振り返ると、結果的には非常によ かったと思います。成功しましたからね。大学で事業化はできませんから、 どこかにトランスファーしようとは思っていました。この青色発光素子 (ダイオード、レーザー)は、どこかで必ず企業化されるという確信はあり ました。委託事業が始まったのは最初考えていたよりもちょっと早かった わけですね。豊田合成に言わせると、彼らは半導体の何にもわからないか ら、かえってそういう世界に入っていけたんだそうです。半導体の難しさ と怖さを知らなかったと。それがかえって幸いした。半導体に詳しければ、 高品質結晶はできていたものの、まだpn 接合はできていない段階で、自 社の専門とは全く異る、しかも未到と言われた青色発光素子の事業化に大 きな投資をしなかったかもしれません。