2014年9月号
インタビュー
今日の高速・大容量光通信を実用化させた肝心の技術

中沢 正隆 Profile
(なかざわ・まさたか)

東北大学 電気通信研究所 教授/
電気通信研究機構長


歴史家の仕事は簡単ではない。どこかの国の、次の時代の権力を握った者が勝手に書く話なら別だが、何がどのように起こったのか、正確に遺そうとするのは、たやすくない。科学や技術の歴史もそうであろう。でも、正確な記述は、間違いなく次の世代への貴重な財産になるはずだ。

光ファイバー通信という技術は、20世紀後半における極めて大きな技術革新であった。それまでの電気通信の枠組みの中に、光という別の電磁波を芯として組み込んだからである。では、その光通信の何が最もカギとなる技術であったのか?媒体であるシリカの単モード光ファイバー、光信号の発振器である半導体レーザー、受信器のフォトダイオードと、いずれも必須であったのは間違いない。でもそれだけで今日の高速・大容量光通信が可能になったのだろうか。

そうではない。技術の展開や経緯を振り返れば、光信号をそのまま増幅するEDFA(Erbium-Doped Fiber Amplifier:エルビウム添加光ファイバ増幅器)に行きつく。このEDFAが決定的な役割を果たした。それが正しい歴史認識かもしれない。これを発明し、実用化への橋渡しをしたのが、中沢正隆・東北大学電気通信研究所教授(電気通信研究機構長)だ。貴重な証言に耳を傾け、日本の科学技術の歴史記憶に残したいと思う。

(聞き手:松尾義之)

スタートは光ファイバー破断点の検出装置

―先生は最初、現在のNTTの研究所に入られたのですね。

中沢 1980年に当時の日本電信電話公社の研究所に入社して、配属先は茨城電気通信研究所でした。博士課程のときに研究していたのは、CH4(メタン)ガスを用いたHe-Ne(ヘリウム・ネオン)レーザーの周波数安定化と、それを用いたアナログの光ファイバーコヒーレント通信の伝送実験でした。レーザーが専門だったので、光ファイバー通信部門への配属には違和感はありませんでしたが、まさか東海村に行くことになるとは思ってもいませんでした。同期入社250名のほとんどは東京や神奈川の研究所配属でしたが、僕ら東海村配属組はドクターが2名、マスターが11名の合計13名という小さな集団でした。

私が最初に任された仕事は「F400M」といって、400メガビット/秒のシングルモード光ファイバー伝送用の破断点検出装置の開発でした。本誌2014年1月号の記事にあるように、今日の最先端は100ギガビット/秒です。でも最初のころの1980年代は 3桁も少ない400メガビット/秒でした。それでも当時の最高速で、技術としてはすごいものでした。

僕らの一番の課題は、ファイバーが切れたときにどの場所が切れたかを検知するパルス試験器を作ることでした。断線場所がどこか特定できないと修理したり迂回したりする方法が取れないから、ネットワークを維持できないわけです。この装置は正式にはOTDR(Optical Time Domain Reflectometer:光パルス試験器)というんですが、要するに破断点を検出する光のパルス試験器を作ることです。しかし当時単一モードファイバーのOTDRは世界で誰もやった人がいなくて、大変難しいテーマでした。

ではどうやってやるかです。光ファイバーというのはガラスなので、ガラスが固化して普通の温度に下がるときにガラスが一様にできることはなく、ミクロにみると粒々状になるのです。だから、そこに光が通ると散乱が起こる。これは非常に弱い散乱で、われわれはレイリー散乱と呼んでいます。そこで、ファイバーに光パルスを送ってそのレイリー散乱をつかまえて、それが来なくなる場所が切れた地点、すなわち破断点だと判定する装置を作ろうとしたのです。それが僕の最初の仕事で、ちゃんと実現させました。

次の課題は、より遠くまで見るためにはどうしたらいいかでした。普通に考えれば、一番損失が少ない通信波長帯の光パルスを打ち込めば、一番遠くまで届くのでいいのです。しかし、そんなパルスをつくろうとしても当時の半導体レーザーはまだパワーが弱くて、波長1.5μmの高出力パルスはできていなかったのです。F400Mの中継間隔というのは80 kmありました。片方でなく両端から光パルスを打ち込むことにするとしても、最低でも40 kmは透過してくれないと話にならない。それで結局、光源そのものからつくることになったのです。

エルビウムとの出会い

―近赤外である波長1.5μmの高出力固体レーザーということですね。

中沢 そうです。1982年に、波長1.5μmのレーザーとしてどんな材料があるか、いろいろ調べていって、エルビウムという材料に行きついたのです。当時、アメリカでつくったことがあることは分かりましたが、それは主流のレーザーではなく、また、日本では一切やっていませんでした。そこで、まずはエルビウムを入れた固体レーザーロッドをつくって、レーザー発振させてみることが先決だということになりました。こういう時、当時の電電公社の研究所はすごかった。予算はあるし、一人一人の研究者にも余裕がありました。素晴らしく優秀な先輩方がいっぱいいて、いろんなアイデアがどんどん出ました。

―当時の武蔵野電気通信研究所など、良い意味での猛獣のような天才がたくさんいて、しかも優れた猛獣使いがおられたように記憶しています。

中沢 予算もあって、当時は光源を自分たちでつくろうと思えば実現できたのです。実際、NECの鷲尾邦彦さんという固体レーザーの専門家や、HOYA株式会社の虎渓久良さんにも参加してもらって、エルビウムの固体レーザーをつくりました。それを私たちの研究室に運び込んで、光をファイバーに通してOTDRの実験をしました。そうして、障害点の探索距離として世界最長の130 kmという成果を報告したのでした。

―それがエルビウム・レーザーだったのですか。

中沢 エルビウムという元素(原子番号68)が入っているレーザーという意味です。当時HOYAは、大阪大学のレーザー核融合用のレーザー開発を進めていました。それは、ネオジムという材料を入れたガラスレーザーでした。そこで私たちがお願いしたのは、ネオジムの代わりにエルビウム元素を入れたレーザーロッドを作ってほしい、ということです。HOYAの事業部長さんは大変積極的な人で、「やったことはありませんが、ご協力できるかもしれませんので、やってみましょう」と言ってくださった。最初、レーザーロッドの出来は全く駄目で、レーザー発振もしなかった。しかし、途中から「OH基」つまり水を抜くことが重要だと気が付いたのです。これは高性能の光ファイバーをつくる条件と同じで、水を抜いてレーザーロッドを作ったら、すごくパワーの出る波長1.5μmの固体レーザーができたのです。

ここからエルビウムとの本格的な付き合いが始まりました。その後、光ソリトンパルスとか光ファイバー中の非線形光学とかいろいろな研究に取り組みましたが、その基本は、OTDRの中に強いパルスを入れていくと、いろいろな非線形現象が現れてくることでした。その意味でも、最先端の単一モード光ファイバーのOTDRの研究に従事することができて、私はとても運がよかったと思います。1983年にエルビウム入りのレーザーガラスロッドができたので、それを線引きすれば光ファイバーになり、さらにはファイバーレーザーにもなるし、ファイバー増幅器にもなると思いました。ところが、そうは問屋が卸しませんでした。

というのは、当時のエルビウムファイバーのガラスは、今日のガラスと違うんですよ。リン酸系といって軟らかいガラスでした。だから、線引きするとすぐにドロドロに溶けてしまう。400〜500℃で溶ける。それと、光ファイバーというのはコアの周りに屈折率の低いクラッド層があって、光を閉じ込める二重構造になっていますが、これを実現するクラッド材がないのです。しかも、HOYAはレーザーロッドを作る専門家でしたが、ファイバーを作る部隊ではありませんでした。それでもやってくれと頼んで線引きしてもらいましたが、なかなかうまくいきませんでした。

―阪大のネオジムガラスレーザーは確か、リン酸ガラスの固体レーザーでしたね。

中沢 そうです。レーザーロッドをつくるために、リン酸系ガラスにエルビウムを高い濃度で入れたのです。リン酸系ガラスには希土類が高濃度に入りますので、10 cmぐらいの長さでも大きな利得が得られるのです。

―なるほど。そのロッドを線引きしたけど、結局駄目だった。

中沢 ちょうどそんな時、MIT(マサチューセッツ工科大学)に1年間留学の話が出ました。イッペン(E.P. Ippen)先生とかハウス(H.A. Haus)先生というレーザー関係の有名な研究者がMITにおられ、そこに1年行って帰ってきました。そうしたら、日本の三菱電線工業株式会社の田中紘幸さんのグループが、ネオジウムを入れたシリカファイバーをやり始めていたのです。そこでわれわれ電電公社と三菱電線工業は連携することになり、やがてそれが世界初のエルビウムの光ファイバー増幅器につながっていくのです。

―それはもうリン酸系ガラスではない。

中沢 ええ、シリカ系ガラスSiO2です。リン酸(P2O5)は軟らかいですが、シリカファイバーは普通の伝送用ファイバーと同じなので、大変好都合です。それに機械的特性もリン酸系ファイバーよりも格段に強いです。

―ベースのガラスよりもエルビウムが効くということですか。

中沢 そうです。発振波長はエルビウムイオンの遷移線で決まるし、光増幅が起こる波長もエルビウムで決まるので、エルビウムで光増幅するという研究をとことんやりました。MITから戻った1985年の秋口から始めて、86年あたりは盛んにやっていたんです。そしたら87年に英国サウサンプトン大学の連中に出し抜けをくらわされてしまったのです。サウサンプトンというのはイギリスの南のところにあって、例のタイタニックが出発した大きな港町です。あそこに大きな光ファイバーの研究所があって、そこから、エルビウムファイバーによる増幅実験に成功したと発表があったのです。先にやられた、と思って最初はすごいショックを受けました。ところが、彼らがやったのは実験室の大きな定盤の上で、しかも畳一畳ぐらいの大きな色素レーザーでエルビウムを励起するという方法でした。これではすぐには実用化できません。われわれが目指していたのは、波長が1.48μmの小型の半導体レーザーを使って、エルビウムを励振することでした。実際に、手の平サイズの非常にコンパクトな光アンプを世界で初めて作ったのは1990年で、神戸の国際会議で発表しました。

―先にやられたと思って必死になって、数年で完成させたわけですね。

中沢 正確に言うと、彼らの論文発表は87年9月で、僕らは89年1月にアメリカの雑誌に、10 dB程度の増幅実験結果とともに、原理的にこういう増幅器が半導体レーザーでできると報告したのです。今日の光ファイバー通信がここまで大きく発展したのは、まさにその時からなのですよ。

光通信の実用化は、増幅がポイントだった

―そのあたりをお聞きしたいのですが、増幅が最も重要なポイントだったのですか。

中沢 そうです。ご存じかもしれませんが、当時のシリカファイバーは0.2 dB/kmぐらい伝送損失(ロス)がありますので、 100 km進むと光が100分の1になってしまう。だから、太平洋横断なんかまったく無理でした。そこで私が入社したときは、超低損失フッ化物ファイバーが研究されていました。すごく軟らかい材料ですが、損失が0.01 dB/kmと1桁以上小さい。そういう超低損失光ファイバーの研究が真剣にされていました。ただ、材料が軟らかいので、シリカのような性能が出ないとか、潮解性があって端面が溶けるとか、いろんな問題があったのです。僕らが考えたのは、そういう新規のファイバーよりは、光増幅器を入れて、損失分を取り戻せばいいという方向での解決策でした。エルビウムは最初はレーザーとしてつくりましたが、その後の目標は光増幅器として使うことになったのです。

―もう一方で、信号の入力そのものを高くする道もあるかと思いますが……。

中沢 もちろんそうです。ただあまり高くすると、光ファイバーのコア径は10μmぐらいなので非線形現象が起こって、信号が信号でなくなってしまうのです。だから、最適な伝送のパワーレベルは限定されていて、その強度で光を送り出すと、1中継の伝送距離は100 kmとかに決まってしまうのです。

―なるほど、そういうことでしたか。では光増幅ということですが、トランジスタみたいな形だと簡単に理解できるのですが、光ファイバーの場合の増幅というのは、イメージがつかみにくいです。要するに、物質つまり光ファイバーの中で、それに比例する形で光の増幅が起こるというわけですか?

中沢 シリカファイバーの中にまぶしたエルビウムという元素で光の直接増幅をするんです。ファイバーの中にエルビウム元素を入れると、誘導放出という現象により弱い光をそのまま大きくできるのです。これをエルビウムによる光増幅と呼んでいます。問題は、シリカのファイバーの中にエルビウムが入るのかどうか、という点でした。それはまさに「神のみぞ知る」でした。そして現実には、シリカガラスにエルビウムがうまく溶けたんですよ。溶けてなければ、今日のような光通信の時代は到来しなかったのです。

―偶然、つまり、まったくのバイチャンスだったのですか!

中沢 ええ、本当にバイチャンスで、たまたまうまく溶けたんです。シリカというのは硬い材料で、希土類など大体の材料はうまく溶けないんですよ。しかしネオジムが溶け、そしてエルビウムも溶けました。もちろんリン酸ガラスやフッ化物ガラスの軟らかいものには高濃度までもっとよく溶けます。だけど、シリカにうまく溶けるのは本来はまれな現象であって、われわれは幸運だったといえます。

―自然というのはなかなかしゃれていますね。

中沢 仕組んだわけではなくて、自然がそうだった。

―そして、このエルビウム添加による光ファイバー増幅器(EDFA)ができたことで、結局は今日の光通信が存在している。

中沢 ええ、そういうことです。多くの人は知りませんが。

―EDFAが実用になったのは何年ごろですか。

中沢 われわれが1989年に提案して、90年から伝送実験が始まって、商用化されたのは95〜96年だと思います。

―技術の世界の常識からみると、ずいぶん速いですね。

中沢 めちゃくちゃ速いですよ。ただ、今でも残念だと思うのは、当時はどの会社でも海外特許を出すのは簡単ではありませんでした。海外特許を維持するのに年間1千万円とかお金が掛かるので、ランクをつけて申請するテーマかどうか決めていました。そして結局、このエルビウムの光ファイバー増幅に関して、海外特許を出さなかったんですよ。大変にもったいないことをしたと思っています。結果として世界中のEDFAはみんなわれわれの特許を使ったので、国際特許にしておけば、すごい特許料収入がNTTに入ったと思います。日本国内だけでも、かなりの特許使用料を得たと思います。

―でも、お金より技術で、世界の光通信の大発展に貢献されたというまぎれもない事実は、人類の歴史にきちんと刻まれていきます。

中沢 そうですね。それは誇りに思っています。しかし、われわれの貢献って目に見えにくいんです。どこに使われているのか説明しても、なかなか直感的に理解してもらえません。EDFAというのは、何かよく分からないという感じです。

1万kmレベルの伝送実験が可能に

中沢 それはともかく、非常に小さい光増幅装置(アンプ)ができました。これができたので大規模な伝送実験も可能になりました。例えば 100 kmにEDFAを1個ずつ入れて、500 kmぐらいのループ実験ですが、トータルで 5千kmとか1万kmの光ファイバー伝送実験をしたのです。こうした実験は、それまでは存在しなかったんですよ。特によかったのは、われわれが提案したEDFAは、誰がやってもきちんと動いたことでした。

われわれの論文には、こうやるとどのぐらいのレベルで蛍光が出て、増幅度が10数dB出せます、と具体的に書いてありました。そういう論文なので、同じようにやると誰でもできたのです。だから、発表した途端に欧米各地で伝送実験が始まり、そこから急速に広まって、システムがどんどん高度化していきました。95〜96年ごろのことです。

―世界規模でそうなった。確かに、90年代半ばあたりに、光ファイバー通信が一気に加速されたという記憶が残っています。あの最大の理由が、先生のお仕事にあったのですね。

中沢 そうです、このエルビウムだったのです。世界中で競争しながら新しい通信技術を作り上げたということです。これは最近よく使っているパワーポイントなんですが(図1)、横軸に年代をとって、縦軸にファイバー1本当たりの伝送容量をとったものです。緑の点線がムーアの法則で、ブルーが商用化の実際の推移です。ここに私たちのEDFAがあります。EDFAがいいのは、波長多重が可能なことです。これは要するに虹の通信ですね。色の違う波に違う情報を入れて、 1本の光ファイバーの中に100波とか 200波を乗せて送れる。そのために大容量化する。これがその線です。この技術があったから、1997年頃から、世の中はギガビット時代からテラビット時代になったんですね。これをわれわれは「第1のイノベーションの時代」と言っているんですが、それはEDFAで実現したのです。われわれの報告が1989年ですから、進歩は非常に速く、10年以内に商用化しているのです。

図1 光通信の伝送容量の変遷と新たなる挑戦

―逆に言えば、そのくらい確固たる技術だったのですか。

中沢 ええ。例えば僕らが特許を申請したときも、査定でクレームが一つも付かなかったのです。特許というのは、普通は必ず差し戻しが一回はあるでしょう。ここはおかしいとか、既知であるとかいって。だけど、この特許は審査官からクレームが付かなかったのです。でも、その後が大変でした。内容を公開して、これに対してクレームを6カ月間受け付けるわけですが、そうしたら大手の通信系会社やケーブルメーカーなど、名前を隠したり、きちんと名乗ったりといろいろでしたが、7社ぐらいからクレームが来ました。それはそうでしょう。われわれの特許が成立してしまえば、EDFAを用いた新光通信システムが押さえられてしまい、大変なことになるわけですから。海外に売り出すにしても、日本でつくって売り出すにしても、われわれの特許に引っ掛かる。7件か8件のクレーム一つ一つに対して、われわれの特許は極めて高い特許性があることを説明しました。部厚い資料ファイルは今でも残してあります。これらのクレームをクリアして、特許として認められました。こうしてNTTはその特許権を持ったのです。1988年に出願して確か97年に認められた特許なので、もう権利期間は終了しました。

EDFAがなければ、従来のように光―電気変換を用いた中継器を通す必要があるということです。50 kmか 100 kmごとに海底中継器を置いて、まず弱まった光信号を電気信号に変えて、これを電気信号で増幅して、さらに中継器の中の半導体レーザーで光信号として再変調して送り出す。そういう光―電気・電気―光変換を必ず入れてやっていたことでしょう、EDFAがなければ。

―それが光通信でのビジネスになるという話も、かつて聞いたような記憶があります。どうなったのか不思議に思っていました。

中沢 従来の光中継器はすごく高価で、電気と光の変換器をたくさん入れるので、物理的にも大きくなり電力も食いました。しかしEDFAになったので、装置も小さくかつ低消費電力になり、また安くて大容量の光ファイバーと組み合わせて、KDDはEDFAを用いた新たな太平洋横断ケーブル伝送方式を敷設できたのです。

―そうか、あのKDDの太平洋横断ケーブルに先生のEDFAが入っていたのか。

中沢 そうです。 深さ8千mの日本海溝にも横断ケーブルが通っていますが、あそこでもこのEDFAが今も動いています。

―なるほど、経緯はよく分かりました。そしてそのエルビウムそのものには、振り返れば、先生が入社した直後から出会っていた。

中沢 そういう話を知る人が少なくなっているので、最近よく申し上げるのです。1983年に、光ファイバーの障害点探索OTDRの性能を上げるためにエルビウムレーザーをつくった。そのときにもうエルビウム元素を考えていたという事実です。世界的には、サウサンプトンが色素レーザー励起で初めてやったことになっていて、エルビウム元素を光通信に持ち込んだのは彼らだと思われている。でもそうではないんです。

―色素レーザーというと波長可変なレーザーですが、彼らが使ったのは波長を合わせるためですか。

中沢 そうです。エルビウムを活性化するときに、いろんな励起波長で活性化できるのですが、彼らは色素レーザーを使ったのです。当時はエルビウムイオンを用いた光増幅実験であり増幅器のイメージはまったくありませんでした。

―ということは、彼らはまったくの基礎研究だったのですね。

中沢 そういうことです。われわれの方法が小型装置として素晴らしく成功したので、では最初に増幅実験をやったのは誰と、過去を振り返るような形で彼らの仕事が評価されたと思っています。

―ここ20年ほど、みんなそうですね。日本が主導したり、裏で支えてきています。

ラマン増幅の研究も並行して進めていた

中沢 もう一つお話ししておきたいのは、例えばラマン増幅など、EDFA以外の仕事も進めていたということです。光増幅器というのはEDFAだけじゃなくて、実はシリカファイバー自体も光増幅器になるんです。光ファイバー自体に強い光ビームを入射すると、非線形光学効果の中の誘導ラマン増幅という現象が現れるのです。このラマン増幅を使うと光ファイバー伝送路がそのまま光増幅器になるのですが、そういったこともオルタナティブとして同時に研究していました。半導体レーザーのしかも1.48μmという励起波長を使ったラマン増幅を研究していたのです。当時それが実用化できなかったのはラマン利得が小さかったからです。一方で、エルビウムの増幅器に関しては、英国は色素レーザーでしたが、われわれも最初はアルゴンレーザーというやはり大出力のレーザーを使って基本実験をしていました。しかしそれも実用化できませんでした。

ところが、1.48μmの半導体レーザーをエルビウムの励起に転用したところ、増幅度が10 dB以上のものができたのです。つまり、ラマン増幅を起こさせるための励起光源が、実はエルビウムを励起するときの励起光源と同じものでよかったのです。もしもラマンの実験をやっていなければ、これをすぐにエルビウムに使って実験してみようということにはならなかったのです。1.48μmという波長の半導体レーザーをエルビウム増幅実験の方にもってくれば、ひょっとすると小さい光増幅器ができるぞ、ということになって、やってみたんです。だから、僕らの研究室で二つのテーマをやっていたことが幸いだったのです。一つだけだったら、EDFAは今みたいな形に展開することはなかったんですよ。

こうしてEDFAに半導体レーザーを使って、コンパクトな光増幅装置を作りました。一方で、光デバイス屋さんはその半導体レーザーを高性能化して、今ではなんと、ラマン増幅まで実用化されているんですよ。実は私はそれも特許にしてありました。そっちの方がEDFAよりも早く書いた特許でした。これも時代より早すぎて、権利期間はもう終わっています。でもそのラマン増幅が今では世界中で実用化されているんですよ。

―面白いですね。

中沢 半導体レーザー励起のラマン増幅とかエルビウム増幅が、私が30代のときに一生懸命頑張ってやっていた仕事なんですよ。両方とも実用化され誇りに思っています。そして驚くことに、最初私がトライしたリン酸系ガラスを用いたエルビウムファイバー増幅器も今では実用化されています。

ソリトン通信

中沢 ソリトンといって、光ファイバーの中で波形が変わらない波が伝搬できるので、それを使って通信することを長谷川晃先生がベル研究所で提案されました。われわれのグループは当時、EDFAを使って世界で初めてソリトンの伝送をやったんです。当時は世界中がソリトンで持ちきりでした。だから、われわれはEDFAでも脚光を浴びたけど、むしろソリトン伝送で世界を引っ張った面があると思うのです。今でもEDFAよりもソリトンの研究で私を知っている人が多いと思います。

―ソリトン通信で騒いでいた時期がありますが、今はどうなっているのですか。少しは進んでいるのですか。

中沢 結論からいうと、当時の段階で技術的には完成しましたが、商用化はされませんでした。KDDがEDFA方式の太平洋横断ケーブルを敷設するときに、ソリトンでやるか普通の方式でやるかという選択があったのです。ところが、従来の方式でも中継ができることが分かり、必ずしもソリトンはいらないとなって。だから簡単な方が選ばれソリトンは日の目を見なかったのです。

―なるほど。普通の方式でできるんだったら、選ばれるはずがないですね。

中沢 ソリトンでは欧米を含めてすごい研究開発の競争をしました。ベル研究所やブリティッシュテレコム(BT)とかが相手でした。学術的には非常に面白いし波形が変わらなくて性能がいいので、実用化されると思ったんだけど世の中はそうならない。よくある話ですが、簡単でコストが安いものが世の中に入っていくのですね。当時、多くの人が、ソリトンが自分の会社に使われていくだろうと思ったんです。会社をつくった連中もいました。バブルがはじける前だったので、ベンチャーキャピタルとかが僕のところにも「会社をつくらないか」とやって来ました。欧米で誘いに乗った人を何人も知っています。でも結局、EDFAと波長多重を組み合わせた太平洋横断光ケーブルシステムができ、ソリトン通信は不要になってしまいました。いい技術がそのまま使われるとは限らないのですね。いい経験をしました。家庭用ビデオレコーダーのベータとVHS方式だって、技術だけで決まったわけじゃないです。

―ええ。技術としてはソニーのベータ方式の方がはるかにいいと言われていました。

中沢 サムソンもソニーもやめた有機ELのTVも、自発光ですごくきれいだけどソリトンみたいなものです。きちんと大画面で作ろうとすると結構コストは高い。液晶で4K、8Kができるなら、当面それでいくということですね。最先端にいる技術者はつらいと思いますけど。

―岩崎俊一先生の垂直磁気もそうでした。水平方式もどんどん改良して性能を上げていくので、なかなか出番が来なかった。

中沢 岩崎先生に聞いたら、垂直磁気に切り替えて研究を始めたのは50歳を過ぎてからだそうです。それで30年かかって、いま80代でようやく垂直の時代になった。研究も50代までは磁気テープの水平記録をやってきて、極限に行きついて、もうこれ以上は水平では駄目だというところまでいったそうです。それで垂直にした。

―そうなんです。産学連携とかイノベーションとか、今いろいろいわれている中で、単純に「いい技術を作れば、それがすぐに産業化できる」という非常にシンプルなスキームをみんなが描くんです。ところがそんなに単純じゃない。実際、日本からいい研究がいくつも生まれているのに、それがビジネスに行かない。何か別のファクターがあるのですね。

中沢 そう思いますね。

―特に光分野など、新しい技術が生まれると、必ずそこに日本人の優れた研究があるように思います。

中沢 あると思いますね。

―日本の研究力はすごいですからね。

中沢 欧米の人は日本の光通信の基礎研究力、デバイス技術力がすごいことを分かっています。そこまでいくには長い時間がかかったわけですけど、そういう理解をしてもらっているのでわれわれのやることに対してきちんと一定の評価をしてくれる。論文を出せば変な戻され方はされません。

―それは大きいですね。

中沢 産学官連携功労者表彰で内閣総理大臣賞を頂いたのですが、EDFAを大きく実用化したのは古河電気工業株式会社さんで、事業部をつくって、EDFAだけでかなり売り上げたと聞いています。

―EDFAは日本政府としても誇り高い技術なのですね。

増大する需要に対応する新しい三つのM
 (スリーエム)の開発へ

中沢 光ファイバー通信の研究は、EDFAと波長分割多重(WDM)でやってきたんですが、波長数を増やすとファイバー内のパワーが1W(ワット)以上になります。するとファイバーフューズと呼ばれるファイバーのコアが溶けてしまう現象が発生します。このため、2000年以降ヨーロッパやアメリカ、あるいは日本の国際会議で100テラ/秒以上のデータが出てこなくなったのです。WDM方式は1本のファイバーだと最大入力が決まってしまうのです。一方、需要の方は確実に増えています。年代ごとのインターネットのトラフィックをみると、年率40%ぐらいの割合で増えているんです。つまり、20年後は1.4の20乗で約1千倍になる。20年後に1千倍。ところが、われわれの光通信のインフラは、たとえEDFAがあったとしても、それを実現する能力がないのです。

だからいま、産学官連携でNICT(情報通信研究機構)の委託で「第2のイノベーションを実現しよう」と頑張っているのです。一つはコヒーレント通信です。二つめはマルチコアファイバーです。今までのファイバーは断面を切ると真ん中にコアが1個しかないんですね。その代わりに複数のコアを1本のファイバー内に配置したらどうなのということです。

―そんなアイデアもあるのですか。

中沢 ええ。それから、さらに難しいんですが、三つ目のMの技術として、一つのコアの中にたくさんモードを乗せる試みも世界中で始まっています。これはマルチモード伝送というんですが、今までは最もやってはいけない技術だったんです。

―なるほど、だから、シングルモードにしたのですね。

中沢 ええ、昔はマルチモードファイバーから始めて、やがてシングルモードファイバーになったんです。よくご存じですね。そういう時代を逆転して、今度はマルチモードでどうでしょうかというわけです。今そういう時代になってきているんです。要するに容量を増やしたいので、マルチモードの各モードに違う情報を乗せる。普通だったらそれをやったら混信してしまうのですが、MIMO(multiple-input and multiple-output)という無線の技術があるのです。携帯電話にアンテナを複数積んで容量を増やす方法で、2本積めば容量は2倍、4本積めば4倍になる。このMIMOの技術をマルチモードファイバーに使ってマルチモードが制御できるんです。そういう時代になってきています。

それで、多値のコヒーレント通信で10倍、マルチコアで10倍、マルチモードで10倍にすれば、10×10×10で 1千倍だという皮算用なんです。これを産学官でやっています。大学も北海道大学、東北大学、横浜国立大学、大阪府立大学など、いっぱい入っています。企業も、NEC、富士通、電線3社(古河電気工業株式会社、住友電気工業株式会社、株式会社フジクラ)など。あと、産総研(産業技術総合研究所)です。日本から第2のイノベーションをやろうとNICTの人と一緒に提案したのです。これに国の予算が付いて、この研究を進めています。マルチレベルのコヒーレント通信のMとマルチモードのMとマルチコアのMで、三つのMの技術“3M”と言っているんですよ。

―スリーエムだ。

中沢 スリーエムだけどスコッチテープじゃない(笑)。大昔の光通信は、のろし通信ですから、1と0のオン/オフでしかないんですよ。ところが今は、光を電磁波として取り扱い、その振幅と位相に情報を載せる直交振幅位相方式なので、星座のように点が沢山あるコンステレーションといっているんです。昔の光にとって夢のような時代になりました。

―星座ですか。第一のコヒーレント通信に関してですね。

中沢 ええ、振幅と位相をきちんと制御すると、例えば4×4で16個の独立した信号を作ることができます。昔はオン/オフ2の1乗すなわち21で1ビットでしたが、それが24ですから4ビット送れるということです。4倍性能が高いわけです。これは無線の技術ですが、これまでは光には使えなかった。なぜかというと、光は周波数が高いから、このように位相を分割するとそれぞれの時間スロットの中で位相がぐじゃぐじゃになってしまったからです。ところが最近、この位相の乱れを制御する技術ができました。

実際私の研究室でやっているのですが、世界最高の2,048個のコンステレーション(2,048 QAM伝送)を先日OFC(Optical Fiber Communication Conference)という世界最大の光通信国際会議で学生が発表して、アジア人で初めて賞をいただきました。つまり2,048個の点があり、その1個1個が情報になっている。2,048(=211)というのは2の11乗です。つまりこの光を1個打つと11ビット送れるということです。そんなとてつもないことをやっているんです。これがマルチレベルのコヒーレント通信の最先端です。

―次がマルチコアファイバーですか。

中沢 ええ。光ファイバーの断面が普通のファイバーよりも少し大きいですけど、古河電工が19個のコアを入れたものを作っています。普通はコアは1個しかないのに19個入っている。住友電工は超高性能な7コア配置のものを作っています。ここでの問題は、互いのコアが重なって混信するとまずいということです。これをクロストークといい、データが漏れてしまう。フジクラは真ん中に置くコアが一番クロストークが大きいから、この真ん中をやめてリング状に並べる方式を採用しています。いずれも日本にしか作れていません。

―こんな時代になっているとは、まったく知りませんでした。

中沢 ここ4〜5年で光通信は大きく変わったんですよ。欧米の研究者など、最初は、マルチコアなんていつ誰が使うんだ、絵空事だろうとか言っていたんです。でも今やわれわれよりも真剣に取り組んでいますよ。こういうファイバーを作る技術はやっぱり日本が最高です。このファイバー作りの技術力は他のところにはない。コーニングがやっとやり始めましたけど、本気でしょうか?

―そして三つ目のマルチモード。

中沢 ええ。MIMOといって、マルチインプット・マルチアウトプットというものです。無線で、例えば送る側にアンテナ二つ、受けの携帯電話にもアンテナが二つあると、普通は混信します。このデータは片方のアンテナだけに送りたいけど、自由空間なので漏れてしまい、両方に入って混信状態になります。ところが、MIMOというのはこれを混信しない前の状態に戻すことができるソフトウエア技術なのです。同じことをマルチモードファイバーの中でやる。つまり、違うモードにそれぞれ違う情報を乗せると、それぞれが別のアンテナだと思って、普通は混信してしまうけれど、MIMOでそれを元に戻すことができるのです。だから、従来は一つのモードだけでしたが、今では断面形状が二つに割れたモードとか、四つに割れたモードとかちょっと信じられないような複雑な高次モードも伝送に用いるようになってきています。特にアメリカはこういう信号処理が得意です。

―確かに米国はソフトは得意ですね。

中沢 ええ、デジタル制御技術といってよく、モードをたくさん使ったいろんな報告が出てきています。いずれにせよ、今、この多モードの技術とマルチコアの技術とマルチレベルの技術の三つを使った研究が、世界中でホットに進められているのです。最近はテラビット伝送からペタビット伝送へ進んでいます。NTTとフジクラとデンマーク工科大学と北海道大学などが、三つの技術をうまく組み合わせて壁を越え、1ペタビット毎秒という伝送実験に成功しています。

―そうですか。まだまだ広げる余地がたくさんあるということですね、すごいな。

中沢 そうなんです、光通信ではまだなお、新たにやることがあることが分かったのですよ。EDFAはある時点で理想的なものでした。だけど、世の中の流れでいくと、通信量はなおも増大し続け、このままだと光通信がある時点で飽和してしまいそうだ、これは困ったぞということで、5年ぐらい前に産学官連携でこのテーマを1年ぐらい真剣に検討しました。KDDI、NTTを含めて20組織ぐらいの人に集まってもらって動き始めたんです。今度、オーストラリアでやるOECC(OptoElectronics and Communications Conference)という会議でも、アメリカもヨーロッパも、この分野の会議は三つのMの技術でほとんど占められています。時代が変わってきたことを実感しています。

―何よりも挑戦するべきことがある方が面白くていいですね。

中沢 ええ、限界に近づいているけれども、まだ最後じゃない。実は限界はなく「人智無限」です。この次の1千倍をどうするかは、ぜひ若い人にも考えてもらいたい。そこには想像もしないような次の技術があるんじゃないでしょうか。

―仙台ですからね。必ずまた出てくるでしょう。

中沢 私のいる電気通信研究所の石碑には西澤潤一先生の「光通信発祥の地」と書いてありますからね。

光通信と無線通信の融合

―伝送システム研究の魅力は何ですか。

中沢 これが面白いのはさまざまな分野の技術が重なってくるところです。さっき言ったソリトンはむしろ物理学ですが、非線形偏微分方程式という数学も必要になります。それから、伝送システムという電気電子工学。それにレーザー工学と、いろんな分野の研究が伝送技術には入っているんですよ。だから、いろいろ知らないといけないけれど、ひとたび知ると、それらの技術が本当に融合して面白いことができる。研究していて楽しいです。一つの細かいところだけではなくて全体を見られるので、とてもエキサイティングな分野かなと思います。

―シャノンのチャンネル容量定理に幾何学である球の最密充填(Sphere Packing)の話が関係すると聞いたとき、僕はびっくりしました。

中沢 そうなんです。よく話すことに、光通信と無線通信の違いは何かというのがあります。無線通信はシャノンの限界を使った情報理論が成り立つ。ところが光通信は長い間そんなレベルまでには行かず足元にも及ばなかったのです。基本的にのろし通信ですから、0か1。煙があるかないかで、のろし通信が速くなっただけなのです。ところが、最近のように光の位相を制御した途端、光通信でもシャノンの限界という言葉が使えるようになったんですよ。同じ電磁波ですから。そしてやっとわれわれも一人前になった。無線の人は昔からこんなに面白い情報理論を駆使して通信をやっていたんです。しかし光通信に今までは深い情報理論は必要なかったように思います。光通信はここ5年ほどで随分変わりました。

―学問の進歩というのは目を離しているうちにすごいでスピードで進んでしまいますね。

中沢 ええ。光通信は一度成長期を迎えたので、もうやることはないと思う人も多いかもしれないですが、今また新たな興隆期に入っているんですよ。あんまり知られてないですが。

―そうか。成熟分野を見くびってはいけないんですね。

中沢 そのとおりで、無線がそうでしょう。無線は携帯電話が出る前は完全に枯れた技術だったように思います。しかし、僕が電電公社に入ったころに背中に背負う携帯電話ができ、それからショルダーホンになって、どんどん小さくなっていきました。横軸に年代をとって、縦軸に容量をとればどれだけ小さくなったか分かります。あれで無線は完全に息を吹き返しました。今は携帯電話がなければ生活できません。「スマホと共に生まれ、スマホと共に育ち、スマホと共に死んでいく」時代になりました。技術の成熟と深化は面白いものです。

例えばわれわれ光技術者は光しか考えてこなかった。一方で無線屋さんは無線しか考えなかった。でも、アクセス系を考えると、光ファイバーが各家庭に入って、一方で携帯電話が普及しました。しかし両者のネットワークは分離しているのです。だから、災害時の復元力=レジリエンスが弱いんですよ。3.11がいい例です。だから、今やろうとしているのは、無線と光の信号をシームレスにつなぐことなのです。光通信もコヒーレント通信になったので、無線とドッキングしたようなシステムをつくる。専門分野の人はネットワークの仮想化と言っているんですけど、ソフトウエアでネットワークを制御する。だから、光を使うか無線を使うかは問わないことになります。伝送媒体に無依存なネットワークの実現、そういったことに目を向けた潮流も出始めています。基盤技術だけではなく、もうちょっと高いレイヤーのところも含めて、ネットワークが大きく変化していく可能性があります。

―それが先生の東北大学電気通信研究機構が目指すものでもあるのですね。

中沢 ええ、そうなんです。その方向を狙っているんです。そうすればレジリエントな回復力のあるネットワークになるので、災害が起こっても光通信の方が駄目になったら無線にすぐ切り替える。逆に無線が駄目になったら光に切り替える。こうすれば何を媒体として使っているかを問わないレジリエントな通信ネットワークシステムができるんです。

―面白いですね。

中沢 われわれもやっとそういう考え方に行きついたのです。異分野技術の融合がますます重要になってきています。光だけやっていればいい時代ではなくなった。無線屋さんが無線だけやっていたって限界がある。ネットワークは両方使って共存しているんだから、その最適解を見つけなきゃいけない。しかしそれを今までやっていないんです。光と無線は分野が違うので互いに理解し合うのも簡単ではないんです。異なった文化で育った3文字略語もいっぱいあります。

―言葉が違うわけですね(笑)。

中沢 そうです。言葉を理解し合いながら一緒にやろうというのが、3.11以後なのです。青葉山(東北大学工学部)に無線で著名な安達文幸先生がおられるんですが、その先生をはじめ無線をやっている先生といろいろ新たな挑戦を始めているんです。

―ありがとうございました。

1980年東京工業大学・大学院総合理工学研究科博士課程了(工学博士)、同年日本電信電話公社電気通信研究所入社、99年 NTT R&Dフェロー、01年 東北大学電気通信研究所教授、08年 東北大学Distinguished Professor、10年 東北大学電気通信研究所長、11年 国立大学附置研究所・センター長会議会長。

IEEE、OSA、電子情報通信学会、応用物理学会の各フェロー、09年度OSAの Board of Directors、現在IEEE Photonics Society Board of Governors。今までに440件の論文執筆、280件の国際会議報告、および100件以上の特許を取得。また、小型EDFAを世界で初めて実現し、さまざまな光通信技術に応用した業績により、IEEE Daniel E. Noble Award、 Quantum Electronics Award、OSA R. W. Wood Prize、紫綬褒章、日本学士院賞などを受賞。