2016年4月号
単発記事
江戸時代のイノベーター平賀源内に学ぶ
オープン・イノベーションの秘訣
顔写真

出川 通 Profile
(でがわ・とおる)

株式会社テクノ・インテグレーション
代表取締役


平賀源内は発明家としてだけでなく、日本初の物産博覧会を開いて大成功させたことでも知られる。発想を事業化まで推し進めるその姿勢から学ぶことは多い。

江戸時代に活躍した平賀源内(1728〜80)は、エレキテル(摩擦起電器)などを作製した科学者、技術者、発明家としてだけでなく、文学など、多方面で才能を示した。その驚くべき発想法とマルチな仕事ぶりは、単なるテクノロジストの枠を超えている。それ故にさまざまな評価をされているが、結果として各種事象を事業化に結び付けていく源内の姿勢は、まさに「イノベーター」と呼ぶにふさわしい先駆的なものだった。

筆者は、8年前から源内の生誕地(香川県)で、「源内ものづくり塾(香川大学)」での実践MOT(技術経営)講師を務める中で、源内の業績に関する知識を深めた。その中で源内を見直してみると、さまざまなことに気付いた。ここでは、江戸時代の理系イノベーターの原点と、オープン・イノベーション、アライアンス(提携や協力)に絞って、源内を紹介する。

イノベーションの土壌と江戸時代のイノベーター

米国では、イノベーションの現場は、大企業でなく、家族的ともいえる小さな組織のベンチャーであることはよく知られている。それはなぜか? 米国では新しい価値を生むイノベーションを行うには、ベンチャーという過去にとらわれない組織をつくって、一つの目標に向かって互いが助け合っていく必要があるからである。

考えてみると、日本の社会には昔から互いに助け合う考え方(互助)が存在していた。人々は自分のことばかり考えるのではなく、みんなで助け合うのが当たり前というオープンな精神があったからだろう。これは島国という狭い場所で多様な人間たちがうまく混ざり合って生きていくための工夫であり、これはオープンなイノベーションを生むベースとなる。

実際に江戸時代を見ていくと、源内の実績がその時代のイノベーションとぴったりと重なるというのが、まずは筆者の驚きだった。科学者でも、発明家でも、事業家でもない中途半端な人物とも評価されていた源内だが、彼を「イノベーター」と定義するとぴったりくる。源内は、実は現代でもなかなか探せない人材だったのである(図1に実践MOTで使うイノベーターの位置付けを示す)。

図1 実践MOTのステージにおけるイノベーターの位置付け**1

平賀源内のイノベーターの原点とイノベーションの実績

源内は1728(享保13)年、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市)で下級武士の三男として生まれた。幼少のころからその才能を高く評価され、21歳で家督を継ぐと、24歳のときに長崎遊学を許される。長崎の地で源内はオランダ語や本草学、医学、油絵などを学ぶと同時に、海外から入ってくる物品を買うために、日本の金銀が大量に流出している様子を目の当たりにする。危機感を募らせた源内は、それらの物品を見て、「これなら日本でもつくれるのではないか」と考え、日本を救うために各種の試行錯誤を開始する。それが彼のイノベーターとしてのモチベーションの原点になっている。

江戸に出た源内は、学問とともに日本初の物産博覧会を開いて大成功を収める。イノベーションという世の中に役立つ新結合のためのプロデューサー役であり、失敗を恐れない「起業家精神」の発揮でもあった。西洋のものをベースに部品から自分で工夫して組み立て、その性能を出現させた事例としては量程器(万歩計)、磁針計、寒暖計などが代表的である。さらに彼のイノベーターたるゆえんは、それらを「商品」にまですることにある。具体的な例としては、秩父をはじめ全国各地での金・銀・銅・鉄などの鉱山開発事業、炭開発流通事業、源内焼や大型風船(熱気球)、金唐革紙、源内櫛(ぐし)の開発と事業化、毛織物製造、エレキテルの改良とそれを使った興行などがある。いずれも発想を顧客価値の出現にまで、すなわち社会にまでつないでいる。

オープン・イノベーションとアライアンス構成者としての源内

これらの源内の仕事は開発と事業化をまたがるイノベーションのステージといってもよい。今でも残っているそれらの記録を見ていくと、途中で挫折したものも含めて、多くの知恵と実践が詰まっており、いろいろな人とのオープンなアライアンスによってなされている例がほとんどといってよいようだ。

源内は、もともと本草学者として高松藩にいるころから優れたネットワークを持っていたという記録が残っている。また江戸に出てからも、それを発展しつつ薬品会を開催、さらにそのネットワークを利用して次々と新たなアライアンスに展開することが多かったようである。この時代に、実際に長崎に行って世の中の動き、オランダの各種物品や図書とじかに触れ合った体験を基にして、そこから発想を実証的に発展させたのである。この時代の知識人、財界人、幕府関係者にとっても、彼はいわゆるオープン・イノベーションにおけるリソースとして貴重な人材だったといえる。

さらにいうと、源内ははたから見ているだけで楽しくなるキャラクターを持っているが、原点は、いろいろな人との楽しい、うれしいつながりにある。世の中は、昔も今も、競争と協調の社会でもありうるが、各組織、個人とも、手を替え品を替え、競争の方に走る傾向が強いのは否めない。しかし、源内の場合は将来の価値と協調(=アライアンス、連携)の方に配慮がいき、仲間ができていくようである。源内にとってオープン・イノベーションは目的ではなくて、手段である。他人が喜ぶというのは目的になる。源内の活躍をトレースすると、そのための気付きが幾つも見いだされる。

新商品と自立に役立つイノベーター平賀源内の知恵

イノベーターの極意を持っていた源内を知ることだけでもイノベーション実現のためのヒントが得られる。言葉を換えると、源内の発想や知恵を現在に持ち帰ると、その方法や考え方がマネジメントに役立つ。ここではその中で、連携やアライアンスのための源内の知恵を三つまとめてみた。

1. ビジョン、シナリオをつくり皆を集める能力

ここでいうシナリオとは、いわゆる大義名分、現代の企業などではビジョンとも呼ばれるものである。源内は、日本という国(当時は幕府、朝廷)の財宝である金銀資源が西洋の物品代で流出していることを、長崎で目の当たりにした。そんなことをしなくても日本国内で工夫すればほとんどそろうはずだということが、「同感できる」シナリオになっていると推測できる。このビジョン、シナリオのもとで、未来を共有し、皆が集まってくるわけである。

2. 共創の考えと一緒に場を醸成する能力

源内が手掛けた多くの発明品、西洋の改良品、修理品、工夫した模造品などでは、そのすべてともいってよいほどに仲間が存在する。これはいろいろな人からの協力を積極的に仰いだことを示しているし、他者とコンテクスト(文脈)を共有する場の形成能力が抜群だったのだろう。本来は独創であるべき、陶器、絵画、戯文などについても、共同作業的になっているのは、まさにこの共創能力が十分であった証しといえる。

3. コミュニケーション、共有化、説得力

ここでいうコミュニケーションは身近の人だけでなく、殿様とか上位者の考え方をうまく解釈して説得、納得させて物事を実現する力として捉えてみよう。まさに、高松藩の藩主松平頼義や幕府老中の田沼意次の意向をうまく解釈する(コミュニケーションを行って伝え、育成していく)ことが、源内が重宝され、自己実現もある程度はできた理由でもあると思う。

平賀源内の行動を貫いているのはイノベーター活動であるが、その中にオープン・イノベーション、アライアンス、連携といった方法論へのヒントが満載されている。一度、視点を江戸時代に戻して、先駆者源内の実践から学ぶべきことが、まだまだ沢山あると思う**2

●参考文献

**1
出川通.平賀源内に学ぶイノベーターになる方法.言視舎,2012,206p.

**2
出川通.MANGA源内:イノベーター平賀源内の肖像.言視舎,2015,96p.